不動院|足立区南花畑にある真言宗豊山派寺院

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江亀山不動院|荒綾八十八ヶ所

不動院の概要

真言宗豊山派の不動院は、江亀山不動院薬王寺と号します。不動院は、源範僧都が天喜2年(1054)に開山、秀賀僧都(元禄4年1691年寂)が中興したといいます。矢納弁天社の御神体弁財天供養塔は、弘法大師の作といわれ、新羅三郎義光が守佛として戦勝祈願、成就をした源義光が矢を納めたことから矢納弁天と称されるようになったといいます。荒綾八十八ヶ所霊場85番札所です。

不動院
不動院の概要
山号 江亀山
院号 不動院
寺号 薬王寺
住所 足立区南花畑3-25-8
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 荒綾八十八ヶ所霊場85番札所



不動院の縁起

不動院は、源範僧都が天喜2年(1054)に開山、秀賀僧都(元禄4年1691年寂)が中興したといいます。矢納弁天社の御神体弁財天供養塔は、弘法大師の作といわれ、新羅三郎義光が守佛として戦勝祈願、成就をした源義光が矢を納めたことから矢納弁天と称されるようになったといいます。

「足立風土記資料花畑地区」による不動院の縁起

不動院
真言宗豊山派のお寺で、江亀山薬王寺不動院と号しています。1054(天喜2)年に源範僧都により開山されたと伝えられています。中興開山は、1691(元禄4)年に入寂という秀賀僧都といわれています。(「新編蒸さし風土記」)。
本尊は、行基の作と伝えられる薬師如来像で、江戸時代から「秘シテ見ルコトヲ許サズ」といわれ、現在も秘仏となっています。
矢納辨天
現在、山門右手奥に、1976(昭和51)年に再建された矢納弁天社があります。江戸時代後期の「新編武蔵風土記」には、すでに社に安置されていた御神体の弁財天供養塔は、弘法大師の作といわれ、現在は本堂正面右脇陣に納められています。この弁財天に後三年の役の戦勝祈願の成就をした源義光が矢を納めたことから、矢納弁天と称されるようになったといわれています(本巻「新羅三郎源義光伝説」参照)。(「足立風土記資料花畑地区」より)

足立区仏教会資料による不動院の縁起

当山は、天喜2年(1054)の開基なり、江亀山薬王寺と号す。開山は源範僧都なり。中興開山は秀賀僧都にして、寺門を興隆す。元禄4年(1691)に寂せり。開山源範僧都は、大和国宝範上人の上足なり。天喜のころこの地に来り、本尊を安置して開山となる。本尊は、行基菩薩作薬師如来なり。秘して見るを許さず。縁起あり。
境内に弁財天社あり。矢納弁財天と称する。神体は弘法大師の御作なり。新羅三郎義光の守護仏なり。義光奥州の逆徒平定のため下向のさい、当寺の本尊に将士の武運長久・逆徒平定の祈願をこめられしに、その験ありしにより、帰洛の途次、かの守護仏に中差の矢一手を納められたり。すなわち矢納弁財天のゆえんなり。また、境内大銀杏を背に身の丈7尺あまり、総唐金造りの御修行大師石造りの六地蔵菩薩、万霊供養塔などがある。往昔より新義真言宗豊山派にして、武蔵国足立郡西新井大師総持寺末たりしが、昭和14年10月、西新井大師総持寺より離脱し、長谷寺末となる。(足立区仏教会資料より)

風土記資料寺院明細明治による不動院の縁起

中本寺西新井大師総持寺末 東京府管轄武蔵国足立郡花又村 江亀山 不動院
創立年歴并開山不詳、香衣一色着用寺格
第22世宥海 壬申24歳。埼玉県管轄武蔵国埼玉郡釣上村関根佐吉三男、明治3年9月12日右於西新井大師総持寺得度、明治4年11月6日当寺へ入寺、本山小池坊留学3年。以上僧壱人
境内3反7畝5歩、但し除地。檀家7軒。門末并庵室等無之(足立風土記資料寺院明細明治5年項より)

新編武蔵風土記稿による不動院の縁起

(花又村)
不動院
同寺の末(新義真言宗、西新井村総持寺末)なり、江亀山薬王寺と號す、開山源範寂年詳ならず、中興開山秀賀は元禄四年に寂せりと云、本尊薬師行基の作なり、秘して見ることを許さず、縁起あり、其大略に仁王七十代後冷泉院御宇、大和國中川實範上人の上足、源範僧都の安置せし像の由しるして、其後の事實を記さず、もとより近き頃に記せし縁起と見ゆれば、採用しがたし、且源範を當寺の開山とすれど、年代を推に後冷泉院の御代は、天喜より應徳の間に當れば、其頃開けし寺院と云はんも又疑ふべし。
辨財天社。
當社を矢納辨天と稱す、神體は弘法大師の作と云、縁起を閲するに、新羅三郎義光の守佛にして、義光奥州の逆徒退治とて下向の時、當寺の本尊に宿願をこめられしに、はたして其験ありしかば、帰洛の次かの守佛に中差の矢一手を納られしに、則矢納辨天と稱すと云、されどこの縁起は寳暦十年になりしものなれば、古の事實を慥に傳へしものとも思はれず、又彼矢の根と云ものあれど、實に當時のものとも見えざれば、かたかた疑ふべし。(新編武蔵風土記稿より)

不動院の縁起

  • 不動院の庚申塔群(足立区登録有形民俗文化財)

不動院の庚申塔群

不動院は山号を江亀山、寺号を薬王寺とする真言宗豊山派寺院である。寺伝によれば天喜二年(一〇五四)、源範僧都開山とされ、本尊薬師如来を安置する。
山門を入って右、本堂脇に立つ四基の石造物は庚申塔と呼ばれる。
庚申塔は、我が国で平安時代以来盛んであった庚申信仰に基づいて造立された。この信仰は古代中国の道教から発生し、六十日でひと回りする十干十二支の「庚申」の夜、寝入ると体内から三尸という虫が天に昇りその人の日頃の悪事を天帝に告げ、寿命が縮まるので徹夜をして三尸が抜け出るのを防ぎ長寿を祈る俗信である。時代が下ると庶民にも広がり、江戸時代には村々に講が結成され、順番に宿を決め寄り集まって夜通し娯楽に興じることが主な目的となった。三年で結願とされ、庚申塔が造立された。
庚申信仰が石造物として最初に現れるのは中世の板碑である。寛文七年銘の板碑型の形態は、庚申塔が板碑から他の形へ移行する過程で多く造立された。明和四年銘は駒型で、庚申塔として最も典型的な青面金剛が陽刻される。この二基は、複数の造立者名とともに三猿を刻んでいる。年不詳の庚申塔は、角柱型で青面金剛が邪鬼を踏んでいる。弘化三年銘は駒形で、「庚申塔」と文字が刻まれている。台石には、「榎戸講」というこの付近にあった講の名が刻まれている。一般的には青面金剛等の主尊を刻まず、文字を刻む庚申塔は、新しいものが多く、この庚申塔も江戸時代末期に造立されたものである。
四基の庚申塔は、旧花又村内に造立されたものが後に不動院に集められたと思われる。江戸時代の地域の信仰や習俗を知る資料として、いずれも平成十八年三月に足立区登録有形民俗文化財となった。(足立区教育委員会掲示より)

不動院の周辺図