祥山寺|新宿区若葉にある臨済宗系単立寺院

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瑞渓山祥山寺|伊賀衆の菩提寺、忍者の寺

祥山寺の概要

臨済宗系単立寺院の祥山寺は、瑞渓山と号します。祥山寺は、壁誉長老禅師(永禄2年1559以前の人で)が開山となり文禄4年(1595)麹町付近に創建、寛永年間に当地へ移転したといいます。伊賀衆の菩提寺として名高く俗に忍者の寺といったといいます。

祥山寺
祥山寺の概要
山号 瑞渓山
院号 -
寺号 祥山寺
住所 新宿区若葉1-1-2
宗派 臨済宗系単立
葬儀・墓地 -
備考 -



祥山寺の縁起

祥山寺は、種徳寺寺四世璧英宗趙禅師が開山となり、文禄4年(1595)に地所を拝領して創建、伊賀衆の菩提寺として名高く俗に忍者の寺といったといいます。

「四谷區史」による祥山寺の縁起

瑞渓山祥山寺は赤坂種徳寺末の臨済宗で、四谷南寺町現時の寺町にある。寺地は五百四十五坪の拝領地である。「文禄四乙未年於四谷村當時場處拝領仕候」と書上にあつて、種徳寺寺四代の住持で本寺の開山璧英宗趙が寛永十二年乙亥九月廿四日に寂したことから考へると、寺地拝領當時が起立になるのであらう。(「四谷區史」より)

四谷南寺町界隈による祥山寺の縁起

戦前は、臨済宗大徳寺派の末であったがその後赤坂種徳寺末となり、戦後は宗教の自由確立で一ヶ寺一派の自由となった。今は単立である。
新宿区若葉1丁目1番地の2(元四谷区南伊賀町87番地)江戸砂子には石切町としてあるが、石切横町はこの寺の裏横丁であってもう一つ先になるが、この辺一帯を石切町と俚谷した。
山号は瑞渓山、開山は壁誉長老禅師で寺伝ではこの人は永禄2年(1559)以前の人であるというが、これは京都における起源であろう。
京都大徳寺の塔頭に、祥林庵というのがあり(後に泰勝院に合併)その開山は江穏宗顕という僧であるので(永禄4年2月6日寂)、寺名からして祥林の祥を執って祥山寺としたのであろうか。この寺は伊賀衆の菩提寺として名高く俗に忍者の寺といった。この辺の寺はほとんどが寛永11、12年頃麹町口拡張に際して半蔵門外や清水谷に在ったものが移されたもので、また伊賀衆もこの四谷門外に移転せられて伊賀町となった。後に四谷伝馬町の通りを境に北を伊賀町(今の三栄町)南は南伊賀町(若葉一帯)に分かれた。
伊賀衆というのは江戸幕府の職名であって、御広敷(おひろしき)小普請方(こぶしんがた)山里(江戸城中紅葉山)明屋敷番(あきやしき番)を勤めていて、身分としては低いものであったが、時によってはその得意とする忍の者、今でいう忍者をも勤め、変装して諸国へ隠密にも廻された。
その組を伊賀組といい何れも組屋敷に住み、禄高も低かった。おもに伊賀上野の郷士を先祖とし、その起こりは天正10年(1582)織田信長の明智光秀に弑せられた時に、徳川家康、堺より遠江へ還らんとしたときその通路甚だ危険にて難に逢うことを憶い、本多忠勝、伊賀の郷士服部半蔵が嚮導して、半蔵の手の者柘植三之丞、山口甚助、菊地半助等14人および郷士200人を率い、間道より伊勢に出て無事浜松に帰った。この功を賞して録千貫文を与えた。家康、天正18年(1590)江戸に入国して茲に江戸城を築き、幕府を置くことを決めるに及んで、これ等伊賀衆を呼んで用い士邸を与えることになったのが服部半蔵の邸地のあった麹町口外であった。
書上げには「文禄4乙未年於四谷村当時の場所拝領仕候」とあり、赤坂種徳寺の璧英宗趙(寛永12年乙亥9月24日寂)が寺地拝領(545坪)の現在地であるとあるが(東都伽藍記も同じ)、赤坂種徳寺の処も伊賀組がいたので、文禄開基とすればその辺りに始めあったものが、此地へ移されたのかもしれぬ。
この時この辺の寺々は、麹町に置かれたのである。この事は「御府内備考」四谷之四、伊賀町の書上に載っている。(中略)
とにかく、祥山寺は大徳寺直属の寺であって、かつては皇室の御紋章も許され格は高かったようだ。「東京府史料」には敷地540坪と出ているが、今では260坪に狭められている。中興は現住職橋本忍修師の母堂であるという。現世で128代となっている。(中略)
当寺は新宿区文化財、三銭学校の跡なりとの掲示板が地蔵尊の傍らにある。三銭学校のことは、明治10年当時、笹寺長善寺住職、永住町理性寺住職等が発起人となり、四谷区内50ヶ寺の住職と協議し、基金500円余で四谷三宝義和団というのを設立して、鮫ヶ橋安珍坂下の妙行寺を校舎にして共立友信学校と名づけ、その当時の祥山寺住職小島栄年が、当時有名な鮫ヶ橋貧民窟の児童に教科書や筆墨の類まで給して教えた。そこが狭くなり舟町全勝寺に教場を移したが、基金を使い果たしたので、なお追加したがそれも続かず明治24年8月遂に廃校となった。
その後小島住職に貧童父兄から学校継続の懇願頻りであったため、小島住職は区内有志に頼み、毎日3銭宛の寄付を仰いで、この祥山寺境内に学校を開いた。これが三銭学校の由来である。校舎は間口2間に奥行5間、1ヶ月6円の経費がかかった。学童は常に40-50名居た。明治34年頃まであったが(以上新宿区文化財による)、明治36年9月、鮫ヶ橋尋常小学校が東京市において経営され、理髪所まである特殊学校を開いたので三銭学校の必要はなくなった。(四谷南寺町界隈より)


祥山寺の周辺図