全勝寺|新宿区舟町にある曹洞宗系単立寺院

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雄峰山全勝寺|朝倉家の菩提寺、朝倉六兵衛在重

全勝寺の概要

曹洞宗系単立寺院の全勝寺は、雄峰山と号します。全勝寺は、栄巌清繋和尚が曹洞宗龍源寺と称して麹町貝塚に天正6年(1578)創建したといいます。元和2年(1616)牛込藁店に、元和5年(1619)当地へ移転しています。創建時に檀家だった朝倉家が全勝寺の移転時に断絶、朝倉家邸宅のあった当地に移転する縁を住持が嘆いて、寺号を朝倉六兵衛在重の法名興隆院殿籌室全勝居士に因んで全勝寺と改めたといいます。また朝倉六兵衛在重の子町奉行朝倉石見守在重も当寺に葬られた他、在重の娘を娶った牧野越中守儀成も一時葬られていた縁で牧野家の菩提寺だった乾徳精舎(現要津寺)の鐘が当寺に寄贈されたといいます。

全勝寺
全勝寺の概要
山号 雄峰山
院号 -
寺号 全勝寺
住所 新宿区舟町11-6
宗派 曹洞宗系単立
葬儀・墓地 -
備考 -



全勝寺の縁起

全勝寺は、栄巌清繋和尚が曹洞宗龍源寺と称して麹町貝塚に天正6年(1578)創建したといいます。元和2年(1616)牛込藁店に、元和5年(1619)当地へ移転しています。創建時に檀家だった朝倉家が全勝寺の移転時に断絶、朝倉家邸宅のあった当地に移転する縁を住持が嘆いて、寺号を朝倉六兵衛在重の法名興隆院殿籌室全勝居士に因んで全勝寺と改めたといいます。また朝倉六兵衛在重の子町奉行朝倉石見守在重も当寺に葬られた他、在重の娘を娶った牧野越中守儀成も一時葬られていた縁で牧野家の菩提寺だった乾徳精舎(現要津寺)の鐘が当寺に寄贈されたといいます。

「四谷區史」による全勝寺の縁起

雄峰山全勝寺は武州岩槻領染谷村なる曹洞宗常泉寺の末寺である。四谷傳馬町三丁目の北奥、今は舟町に在る。境内六千四拾三坪、天正六年戊寅麹町貝塚に起立當時の寺號は龍源寺と稱した、境内は貝塚で拝領したとあるから北條氏の末期に貰つたのである。元和二年牛込藁店に移り、同五年四谷に轉じた。門前町屋は貝塚時代から在つて、牛込四谷と轉じても付随し来つたと云ふから、これも決して新しくない。其坪數は百八拾四坪餘で傳馬町三丁目の内籠り、別に全勝寺門前とは呼ばず、起立に關しても確たる記録がない。
本名龍源寺を全勝寺と改めたことは、文政寺社書上に傳ふる所がある。未だ貝塚時代に壇家に朝倉某といふものがあつた、寺が牛込四谷と轉じてゐる間に、朝倉家は不幸斷絶して其屋敷跡が圖らず寺地に成つた、これが今の四谷の境内である。因縁寔に尠からざるを時の住持が嘆いて菩提の爲全勝寺と改名したのであつた。興隆院殿籌室全勝居士、元和元卯年二月六日卒、俗名朝倉六兵衛、興禅院殿傑傳宗英居士、寛永十四丑年二月六日卒、俗名朝倉筑波守の位牌は「御公儀向開基と申儀無之、寺内計之牌名建置申候」と云つて、本堂に安置されてあつた。
此寺の開山は榮巌清繁和尚で住世三十一年慶長十三戊申年十二月廿三日示寂した。二代中興晋庵瑞迪和尚は住世十四年にして元和七辛酉年三月十七日示寂。
寺に延寶四年三月鑄る所の梵鐘がある。差渡二尺六寸五分丈四尺の大さで、備後守牧野成貞が其父越中守儀成の爲に寄進したものである。鐘銘に「寄附武州豊島郡駒込村東光山乾徳精舎」と見えるが如く、元来乾徳寺の鐘であつたのを、同寺が深川六間堀に引移つて要津寺と改名した時に、鐘だけは全勝寺に納つたのである。これは成貞の妹玉心院が全勝寺に葬つてある關係からであると傳へられた。
寛政重修諸家譜の記する所に據れば、慶安三年に歿した町奉行朝倉石見守在重は全勝寺に葬られ、同家は代々此處を葬地としたとあるから、同家と寺との關係は慶安後の事である。但し石見守は六兵衛在重の男であり、徳川忠長の家老であつて、主と共に罪を幕府に得た筑後守宣正とは兄弟の間であるから、その關係で二人の位牌を安置したのではあるまいか。
また牧野越中守儀成も此寺に葬られたことがあつた。これも同書の儀成譜に萬治三年三月五日死去と共に「駒込の乾徳寺に葬り、のち四谷の全勝寺にうつし、そののち二男成貞深川の別荘に要津寺を建立してこの地に改葬す」とあるから、一時全勝寺に葬つたことは明かである。儀成の室は朝倉石見守在重の女であるから、親戚の関係で一時こゝを菩提所としたのであらう。儀成の二男成貞が其別業に要津寺を建立して父の遺骸を改葬するに當つて、乾徳寺の梵鐘を寄進したのは一時の菩提所を忘れぬ志を示したのに外ならない。(「四谷區史」より)

全勝寺所蔵の文化財

  • 山県大貳墓(新宿区指定文化財)

山県大貳墓

山県大貳(1725-1767)は、江戸時代中期の兵学者・尊王論者として著名な人物である。甲斐国(現在の山梨県)竜王の篠原で生れ、名を昌貞、字を公勝、号を柳荘、洞斎と称した。
初めは医者となったが、漢学を学び、宝暦6年(1756)江戸へ出て家塾を開き、国学・兵学を教え、多くの門下生がいた。宝歴8年(1758)「柳子新論」を著し、尊王論と幕政批判を説き、明和3年(1766)捕えられ、翌年没した。
門下生に苫田松陰などが出て、後に尊王論者の師と仰がれ、高く評価されるようになった。
墓は、初め全徳寺にあったが廃寺となり、全勝寺に移された。(新宿区教育委員会掲示より)


全勝寺の周辺図