種徳寺|港区赤坂にある臨済宗系単立寺院

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霊凰山種徳寺|早雲寺第二世大室和尚が開山となり小田原に創建

種徳寺の概要

臨済宗系単立寺院の種徳寺は、霊凰山と号します。種徳寺は、北條幻庵綱成(法名本光寺殿龍淵鐡公大禅定門)を開基として、早雲寺第二世大室和尚が開山となり本光寺と称して小田原に創建、天正19年(1591)の小田原の陣の後、徳川家康に召し出されて江戸へ上京、小笠原播磨守康廣の室(種徳寺殿惠光宗智大姉)の帰依を得て靈鳳山種徳寺と改めたといいます。

種徳寺
種徳寺の概要
山号 霊凰山
院号 -
寺号 種徳寺
本尊 -
住所 港区赤坂7-6-29
宗派 臨済宗系単立
葬儀・墓地 -
備考 -



種徳寺の縁起

種徳寺は、北條幻庵綱成(法名本光寺殿龍淵鐡公大禅定門)を開基として、早雲寺第二世大室和尚が開山となり本光寺と称して小田原に創建、天正19年(1591)の小田原の陣の後、徳川家康に召し出されて江戸へ上京、小笠原播磨守康廣の室(種徳寺殿惠光宗智大姉)の帰依を得て靈鳳山種徳寺と改めたといいます。

「赤坂區史」による種徳寺の縁起

臨済宗種徳寺(山號本光山 京都大徳寺末)臺町五十二番地
當寺はもと小田原につて、鎮城山本光寺と唱へた古刹である。開基は北條氏綱の弟、北條幻庵綱成、法號本光寺殿龍淵鐡公大禅定門であるが、綱成の嫡男氏繁は早世し、その子氏勝が家督を相續するに及んで、本光寺を建立し、祖父綱成を開基としたものである。
開山は、小田原早雲寺開山の法嗣にして、早雲寺第二代目の大室和尚であるが、それより三代目聖傳和尚の時、天正十八年小田原陣が起り、次いで家康入國の節、この聖傳和尚が家康に召連れられて、小田原より江戸に引移り、文禄三年麹町十町目に寺地を賜り、聖傳は折々城中に召されて法儀を述べたこともあつた。しかるに何分小田原陣後の事とて、檀徒はなく、相續も成りがたき状態であつたが、たまたま小笠原播磨守康廣室は、北條氏康の息女であつた縁由によつて歸依し、中興開基となつて寺觀を興した。これによつて鎮城山本光寺を靈鳳山種徳寺と改稱し、康廣室の法名も種徳寺殿惠光宗智大姉(寛永二年六月五日逝去)と號した。
降て寛永十九年、第五世方充和尚の代に、麹町の寺地が御用地に召上られ、現在の地に替地を賜つて移轉した。その後元禄十六年の火災に類焼したので、寶永五年に堂宇を改築したが、第十二世白英和尚の代、寛保元年五月、山號を本光山と改めた。越えて文政年間には諸堂荒廢したるも、第十六世桂州和尚の代天保四年に至つて悉く復舊したのである。昔時は寺中松渓院、柏樹院のほか、寮舎永好院があつた。
境内の薬師堂に奉安した薬師如来(丈三尺一寸石立像)は、此處に井戸を掘鑿した際に土中から出現したもので、この因縁により此井戸は醫王水と呼びなされ、今なほ現存してゐる。井の傍にある醫王水の石碑は、元禄十二年武田右衛門八宣廣の建立に係る。現今は毎月二の日に薬師の縁日が立つ。
當寺の墓地は西方の高燥なる丘の上にあつて、大名の墓が多く、岡部勝政(正徳三年四月九日)岡部長庸(享保八年二月十七日)花房職朝(寶暦八年四月廿七日)分部光實(文化五年四月十七日)堀直晧(文化十一年七月十三日)等の大名の墓その他小笠原縫殿助持暠、歸眞法印宋光居士即長州住人周布孫右衛門尉兼宣(延寶九年二月廿四日)の墓や、儒者春田九皐(名は翯、字は羽高、佐藤一斎の門人にして詩文を能くした。文久二年二月十一日歿。年五十二。)の墓、及び辭世詩を刻した青柳亭糸丸の墓がある。
又特に名墓の一に數ふべきは、狩野興以(狩野光信の門人、下野足利の人。紀州家に仕へ三百石拝知。師光信の弟孝信よりその三子探幽守信、尚信、安信の指南を託さるゝや、興以は献身的に此三人を指導し皆名を成さしめて師恩に報じたるを以て、その功に依り狩野家から特に狩野の姓を許された。寛永十三年七月十七日歿。)の墓であつて、その石垣は明治卅七年彼の遺徳を景慕する美術學校等の有志晝家の修造にかゝるものである。(「赤坂區史」より)

江戸名所図会による種徳寺の縁起

狩野興意墓(種徳寺内)
同町三分坂下霊凰山種徳寺の境内にあり、當寺は大徳寺派の禅園にして昔ハ相州小田原にありしを天正十九年糀町に引き後當所に移さる開山ハ東光知灯禅師と号候、医王水も當寺の霊泉なり。(江戸名所図会より)


種徳寺の周辺図


参考資料

  • 「赤坂區史」
  • 江戸名所図会