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智泉院|中央区東日本橋にある天台宗寺院

智泉院の概要

天台宗寺院の智泉院は、鎧島山と号します。智泉院は、徳川家康が、 江戸城鎮守の山王日枝神社の神輿が渡る所である山王御旅所を南茅場町に設置した際に、 山王権現の本地佛としての薬師堂を寛永12年(1635)に建立、智泉院がその別当寺となり、山号を鎧島山から醫王山へ改めたといいます。 江戸時代には病を治す御利益のある薬師信仰が盛んで、 茅場町のお薬師様は特に人々の参詣も多く、他所の仏像開帳もしばしば行われていたといいます。

智泉院
智泉院の概要
山号 鎧島山
院号 智泉院
寺号 -
住所 中央区日本橋茅場町1-5-13
宗派 天台宗
葬儀・墓地 西高島平霊園
備考 茅場町のお薬師様



智泉院の縁起

智泉院は、徳川家康が、 江戸城鎮守の山王日枝神社の神輿が渡る所である山王御旅所を南茅場町に設置した際に、 山王権現の本地佛としての薬師堂を寛永12年(1635)に建立、智泉院がその別当寺となり、山号を鎧島山から醫王山へ改めたといいます。 江戸時代には病を治す御利益のある薬師信仰が盛んで、 茅場町のお薬師様は特に人々の参詣も多く、他所の仏像開帳もしばしば行われていたといいます。

「中央区史」による智泉院の縁起

智泉院(日本橋茅場町一の十四)
鎧島山と号し、往昔山王権現日枝神社と一つであり、上野寛永寺の末寺であったため堂宇の荘厳は到底今日とは比較にならぬものがあった。徳川幕府が倒潰してからは寺領地を失ったため自立不能におちいり、加えて排仏毀釈運動の余波をうけ、一時住職も専住することがない有様で、旧時の寺観を一変し、多年両部の奉祀であった山王権現を日枝神社とし、薬師堂は仏殿として別立した。世に茅場町薬師と通称する。末社に祀る閻魔坐像も名高く四谷大宗寺の閻魔とならび称され、正月、七月の各十六日には閻魔詣の人々が群集し、衆人へ甘茶を与える釈迦誕生会とともにかなりの賑いを呈する。
境内に戸張孤雁の作になる青銅の地蔵尊像一体を安置するが、これは大正十四年に大震火災殉難者供養のために建立したもので、孤雁はこれを完成した直後に歿し同人の最後の作品となった。明治末年伊豆の長八という左官職人が当院の仕事に従い一躍府内に名工の名をあげたことは結城素明の「伊豆の長八」に詳しいが、同人の作になる内陣左右の扉の昇り龍、降り龍は大正震災に惜しくも焼失した。(「中央区史」より)

東京名所図会による智泉院の縁起

醫王山智泉院
醫王山智泉院は、南茅場町二十九番地に在り、天台宗に属す、府下の名刹なりしも屡々火難に遭遇し、舊記悉皆燼滅したるを以て、今、之を徴するを得ざるも、昔は麹町永田町なる山王権現、即ち官幣中社日枝神社と一つにして、東叡山寛永寺の末寺たりしなり、されば堂宇の荘厳は、繰返へすまでもなからむ。さて江戸時代の記録によりて之を考ふるに、
江戸砂子云、薬師堂、額醫王堂、長崎道榮筆、本尊恵心僧都の作なり、薬師は山王の本地なるにより安置す。
江戸名所圖會云、薬師堂、同く御旅所の地にあり、本尊薬師如来は、恵心僧都の作なり、山王権現の本地佛たる故に、慈眼大師勧請し給ふといへり、縁日は毎月八日十二日(正五九月廿日には開帳あり。)にして、門前二三町の間、植木の市立り、別當は醫王山智泉院と號す(元は鎧島山と號しとなり。)本尊縁起曰、恵心僧都は、其父母大和國高尾寺の薬師佛に祷りて設くる所の靈兒なり、僧都佛門に入て後、法恩を謝せんが為、自ら此本尊を彫刻ありて、高尾寺に安置せられしに、遥の後、相州大場村に遷し奉り、然に慈眼大師東叡山にうつし奉る。此地や大城の東に位し、しかも山王の本地佛たるにより、ここに安置なし奉らるるとなり。
新編江戸志云、薬師堂、かやば町、上野末、別當醫王山智泉院、本尊は恵心僧都の作なり、薬師は山王の本地故に安置す、略縁起に云、當院薬師如来は、恵心僧都二十一歳の御時、自ら尊像を彫刻し、高尾寺へ納め置給ひ、星霜へ経て、相模國大場村に安置し、堂塔も日ならずして成就せり、然るに北條氏の兵火に跏掛り焼亡すと云共、尊像のみ損壊し給はず、其後寛永九壬申年正月八日より十二日迄霊験の事有て、領主諏訪部氏慈眼大師へ告て、彼の尊像を東叡山へ移し奉る、其後當院第二世及見法師へ大師附属し給ひ、見およふの寺は、祭の日、山王遊幸にして、都城より東にあたり、如来済度の地なるをしるし給ふ成るべし。垂跡は山王權現都城の産生神にて、本地は則薬師如来なれば、速に其寺に迎へ奉るべしと、爰に於て、寛永十二乙亥八月八日、新に當院に安置し奉りぬ、元鎧島山と號せしを、尊像安置の後、大師の命に因て、醫王山と改ると、云々。
當院の縁起は、略此の如し、さて、貞享四年開板の江戸鹿子、名薬師の條に、薬師如来、かやば町、智仙院と載せたるを見れば、古くより其の名の府下に鳴り響きたるを知らるべし。又、同境内に於て、屢々諸佛の開帳のありしことは、武江年表に見ゆ。
寛保三年癸亥、三月十五日より茅場町薬師境内にて、井の頭辨天開帳。
延享二年乙丑、二月朔日より、信州諏訪本地勝軍不動尊開帳。同七月六日より相州金目山坂東七番目聖観音開帳。
寳暦二年癸酉、七月二日より八日迄、大阪天王寺南谷寳泉尼寺聖徳太子(束帶御影)正観音開帳(靈巌島濱町提灯屋幸助鷲の作りしものを納む。)
同五年乙亥、三月相州大山の麓子易観世音開帳。
同十一年辛巳、二月朔日より相州高井郡金胎寺不動尊本山釋迦如来開帳。
明和元年甲申、二月、奥州安達原人肌薬師如来開帳。
安永四年乙未、八月相州萩野法界寺朝日如来開帳。
同八年己亥、六月八日より武州下新座村東明寺吹上観世音開帳。
天明元年辛丑、四月八日より和州大峯天の河辨天開帳。
同二年壬寅、三月十五日より北澤淡島明神開帳。
寛政五年癸丑、三月六日より房州鏡が浦西行寺西行法師像開帳。
天保十二年辛丑、四月より當薬師如来開帳。
東都歳時記に、毎月八日、十二日薬師参とありて、茅場町、別當知泉院、當所ことに参詣多く、縁日毎に、夕方より商人多く、又盆栽の草木庭木等を售ふ事夥し、云々。江戸名所圖會には其の圖を描きて
有やくしすすしき風の誓かな
と、其角の句を題せり。又薬師堂境内の圖を示しぬ、縮圖して本誌に掲げたれば、天保年間の舊況、見るに便なるべし。
明治二年、神佛混淆禁止の令は、俄然として舊態を一變したり。
多年兩部の奉祀なりし山王権現は、日枝神社として、神威を明らかにし、薬師堂は、佛殿として別立せり。不断の香は依然たるも、従是漸く微にして、信徒の喜捨に持續し来る。明治十八年囘禄の災に罹り、烏有に歸せしも、直に再建したるは、佛徳の誓なるらむ。
本尊。薬師如来。兩脇士日光菩薩、恵心僧都作。
本堂。奥行二間桁行四間、明治十八年類焼し同十九年再建す。
庫裡。同四間同四間、同断。
観音堂。間口二間奥行二間半、享保年中建之。
水屋。明治十九年再建。
臺所。間口一間半奥行二間半、同廿六年建立。
建物總坪数二十九坪餘、境内七十坪(民有地)あり。本尊は前述の如く薬師如来なるか、別に大聖歓喜天、十一面自在尊、大黒天、弘法大師の勧請あり。又本堂の左に閻魔の坐像を置く。毎月八日、十二日の縁日には、境内所せきまで見世物の小屋は立ちて、近傍諸町まで大に賑へり。また四月八日には釋迦の誕生會にて、衆人へ甘茶を與ふるを例とせり。毎年一月七月の十六日には、閻魔詣にて、参詣群集せり。(東京名所図会より)

智泉院所蔵の文化財

  • 銅造地蔵菩薩立像(中央区民登録文化財)
  • 智泉院の天水鉢(中央区民登録文化財)

智泉院の天水鉢

鎧島山智泉院(天台宗)の本尊薬師如来は、平安中期の恵心僧都(源信)作と伝えられ、江戸時代には山王権現の本地仏として、山王御旅所(現、日枝神社日本橋摂社)内にありました。明治時代の廃仏毀釈などの影響もあって、現在、この薬師如来は川崎市の等覚院に安置されています。
智泉院は、「茅場町薬師」の名で広く知られた名刹で、縁日には植木市も開かれ、江戸庶民の厚い信仰を集めていました。
瑠璃殿前の天水鉢は、天保12年(1841)に本尊が開帳されたのを記念し、奉納されたもので、銘には当時の坂本(現、兜町)という町名や、町に住んでいた人々の名が刻まれています。鋳出した釜屋七右衛門は、通称釜七といって、江戸では有名な鋳物師でした。この天水鉢は、当時の賑わいを現在に伝えるものとして、中央区民文化財に登録されています。


智泉院の周辺図