證菩提寺。横浜市栄区上郷町にある高野山真言宗寺院

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五峯山證菩提寺。佐那田与一義忠のために源頼朝が創建

證菩提寺の概要

高野山真言宗寺院の證菩提寺は、五峯山一心院と号します。證菩提寺は、源頼朝が石橋山で挙兵した際に頼朝の身替りとなって討死した佐那田与一義忠のため、鎌倉の鬼門に当る当地山内庄本郷に、建久8年(1197)創建、東は坂中及び小槻峰、南は矢沢木戸口、西は辺渕橋(稲荷橋)、北は竹後街道(元大橋)という広大な境内に、阿弥陀堂を中心として七坊を擁した大寺だったといいます。佐那田与一の父岡崎四郎の没後、その法名證菩提寺より、證菩提寺と号するようになったといいます。江戸期に入り慶安2年(1649)幕府より寺領寺領七石三斗の御朱印状を拝領、近郷における名刹寺院です。本尊の阿弥陀如来像は県文化財に、客仏の阿弥陀如来及び両脇仏は国文化財に指定されています。

證菩提寺
證菩提寺の概要
山号 五峯山
院号 一心院
寺号 證菩提寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 横浜市栄区上郷町1864
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 -



證菩提寺の縁起

證菩提寺は、源頼朝が石橋山で挙兵した際に頼朝の身替りとなって討死した佐那田与一義忠のため、鎌倉の鬼門に当る当地山内庄本郷に、建久8年(1197)創建、東は坂中及び小槻峰、南は矢沢木戸口、西は辺渕橋(稲荷橋)、北は竹後街道(元大橋)という広大な境内に、阿弥陀堂を中心として七坊を擁した大寺だったといいます。佐那田与一の父岡崎四郎の没後、その法名證菩提寺より、證菩提寺と号するようになったといいます。江戸期に入り慶安2年(1649)幕府より寺領寺領七石三斗の御朱印状を拝領、近郷における名刹寺院です。

新編相模国風土記稿による證菩提寺の縁起

(上之村)證菩提寺
五峯山一心院と號す、古義眞言宗(手廣村青蓮寺末、古は無本寺なりと云ふ)治承四年八月石橋山の役に戦死せし佐奈田與一義忠が追福の為(義忠が墳墓、今猶足柄下郡石橋村にあり、彼が事跡も其條に詳載す、)更に賴朝が建立ありし古刹なりとぞ(【東鑑】建長二年四月の條にも此證あり、下の條に引用す、)かくて伽藍建立の草創は文治五年なり(所蔵文保二年の鐘銘寫又天文十一年の勧進状に據る、其文は共に下寺寶の條に採録す、)開山は宗辨と云ふ(大辿僧都と稱す、)
建久八年六月寺域の四至を限り、殺生禁斷の掟を出せり
(注釈を読む)
是年八月堂宇落成して供養を遂ぐ
(注釈を読む)
建保三年五月将軍實朝参詣あり
(注釈を読む)
四年八月北條義時命を受け當寺にて義忠の追福を修行す
(注釈を読む)
建長二年四月堂宇再建の沙汰あり
(注釈を読む)
當時は供僧として坊七宇
(注釈を読む)
僧十一員ありしとぞ(所蔵年中行事に詳載せり、)
鎌府衰微の後堂宇漸々に荒廢せしが律師宏教務て再興し古の靈像を安じて無量寺と改號す、其後舊號に復せし年代は傳はらず(按ずるに、【鎌倉志】に證菩提寺舊跡は、上ノ村に無量寺と云ふ、眞言寺是なりと見えたれば、貞享の頃は未復號せざりしと識たる)
本尊阿彌陀は行基の作なり
(注釈を読む)
又、大日を安ず(長一尺五寸弘法大師作)古は別堂に安ぜしと云ふ
(寺後の山上なり、故に今も大日山或は大日堂と字す、按ずるに、年中行事に、本願命日六月廿一日、於證菩提寺、法花經一部轉讀、同於大日堂號岡崎堂、勤行在之、世諦依證菩提寺末寺、七箇寺之内大日堂勤之云々と載す、岡崎四郎義實は餘一義忠の父なり、正治二年六月廿一日死、法名證菩提寺と號す、然れば此堂義實が造建なること知らる)
及び文覺の像を置く(長一尺三寸、自作と云ふ、荒行の像なり、)境内に岡崎四郎義實の墳墓ありしと云へど舊趾詳ならず、但し五輪の頽碑多く散在せり、寺領七石三斗は慶安二年八月御朱印を拝賜せり、
【寺寶】
年中行事記一本(注釈を読む)
天文中勧進状一軸(注釈を読む)
鐘銘一通(注釈を読む)
古文書十三通(内一通は前に引用し、九通は下薬師堂の條に引用す、)一は某年四月法泉寺の住僧素安が山下五郎左衛門の贈し書簡、一は同時五月駿河守重義が法泉寺に投ぜし書簡、一は某年五月伊駒藤太が天神社奉加の書簡、
薬師堂。行基の作佛(長四尺三寸)を安ず、是昔時中堂の本尊なりしと云ふ、又三尊の彌陀(注釈を読む)を合とす、是古昔新阿彌陀堂の本尊たりしを堂頽廢の後爰に移せしなり、古堂の舊趾は寺域より南二十町許を隔て字山王臺にあり今堂畑と唱ふ、古堂は北條泰時の女本願主となり(年中行事曰、新阿彌陀堂事、小菅谷殿泰時息女御願也、)嘉禎元年八月創建ありて二年八月供養を遂ぐ
(注釈を読む)
是年創て供養の法を立つ(年中行事曰、嘉禎三年丁酉、供養法被定之、其次第定期等、委く本書に見えたり、)某年北條泰時本郡倉田郷を堂料として寄附せしかど、不納の怠ありしかば、仁治元年三月更に郡中岩瀬郷を其替地に寄す(注釈を読む)
建武二年三月近藤出羽次郎清秀供僧等が料田の數を割定む
(相模國山内本郷、新阿彌陀堂供僧以下料田坪付事、讃岐僧都行辨分、屋敷hン号宇津尾堀、(大堀方)田二町、(三段白山堂、五段柳坪、三段猪鼻、三段笠間、六段志比靈)大夫法印昭辨分、屋敷本郷田所讃岐房蹟、(竹内)田二町、(一町鍛冶ヶ谷、四段白山堂、二段桂口、四段杜木)三位律師寛修分、屋敷本郷櫻井、(大堀方)田二町、(一段白山堂、四段梅澤、二段小櫪町、三段鍛冶ヶ谷、一段大加夫木、五段飯島、三段岩瀬)承仕明教分、屋敷本郷、田一町、(一段岩崎、二段桂入、二段子神前、三段曾利町、二段櫪町)道圓跡分、屋敷本郷在入、田一町、(二段大、桂入、二段小、子神前、二段加夫木、一段西棲橋、二段白山堂)下部鏡法分田一町、(二段後田、一段具所、二段鍛冶ヶ谷口、二段櫪町三段猪鼻)建武二年三月十八日、裏に頓覺坊進之候、近藤出羽次郎清秀、按ずるに、文中の地名、今も村内及び近隣の地に遺稱を存す、即各條に辨あり)
應永廿七年閏正月秀信と云ふもの奉はり、更に大堀方供僧の料田を充行ふ
(注釈を読む)
寶徳二年十二月先に沽却せし堂領九段の田地公許ありて舊に復す
(注釈を読む)
堂内に賴朝の牌あり(嘯源大禅定門神儀と記す)
八幡宮(新編相模国風土記稿より)

「戸塚区郷土史」による證菩提寺の縁起

証菩提寺(上郷町一八六四番地)古義真言宗
当寺は五峯山一心院と号し、時に無量寺と呼ばれたこともあった。山号は境内に神明台・大日堂山・鍛冶ヶ谷台・馬屋ヶ岳という五つの峯があったことにちなみつけられたものらしく(鎌倉攪勝考)、もとは無本寺であったが、江戸期に幕藩体制がととのえられ、本末制度の確立したとき、手広青蓮寺の末寺となったようである。当寺の開創について、治承四年(一一八〇)八月石橋山で戦死した佐那田与一義忠の霊をとむらうため、源頼朝が鎌倉の鬼門にあたる山之内荘に造立したものと伝えているが、起立の年時については異説があり、梵鐘銘文の写には「海東相州山内本郷有奇麗祠、号証菩提寺、文治五年剞劂終切、素律八月供養整儀、金刹教主之安尊像也」と記し文治五年(一一八九)のこととし、天文十一年(一五四二)の勧進状には文治五年開基し、建久八年(一一九七)落成し供養したと述べ、吾妻鏡にも建久八年の建立としている。とすれば文治五年起立の工をおこし、八年の歳月を閲して建久八年諸堂の落成をとげたものではあるまいか。あたかも此の前年は与一義忠の十七回忌にあたっていた。かくて落成した仏堂には阿弥陀如来像が安置され、開山として大進僧都宗弁が招かれたという。時に頼朝は東は坂中並小槻峯、南は谷沢木戸口、西は辺淵橋、北は竹後大道をかぎる四至内の殺生禁断の掟を出されたが、この地域はまた当寺の境内地で、坂中・小槻は東へ一キロ、谷沢は南に二キロばかり行ったところにあり(相模風土記稿)、鍛冶ヶ谷・番匠面などの地名は中世の職人が多く社寺にぞくしていたことから考え、当寺に伝えた鍛冶・大工などの職人の名にちなんだものかと思われる。また房中・中房はかっての坊舎のあったことを示す地名で、当寺には阿弥陀堂のほか慈台坊・義賢坊・智道坊・慶寛坊・証覚坊・実応坊・証語坊の七坊があったようである。今に地名としてのこる柳坪・竹ノ内・鍛冶ヶ谷口・竹後・宇津尾・ぢんがん堂・親福寺・薬師堂・地蔵堂・経堂・高塀・森の木・櫻井・梅沢・公田・猪の鼻・大道はともに当寺の古文書に見えたり、また因縁ある地と考えられるので、曾っては地域内にあったであろうことを物語っており、往時の証菩提寺は広大な寺域をもつ寺院であったことを知ることができる。
とすれば、頼朝は自分の身代わりとなって討死した与一義忠のため、このような大寺を建てねばならぬほど恩義を感じ、期待をかけていたのであろうか。勿論彼の菩提をとむらうためという表面的一因があったとしても、それがすべてでなかったのかも知れない。山ノ内荘は本来山内の首藤氏の所領であり、治承四年十月山内俊通の子経俊からこの地を没収し、自分の支配下においたが、それは一に柏尾川流域の山内荘が経済的にすぐれていたことと、ここに流域の平坦地がそのまま鎌倉につらなっている、いわば武蔵と相模とをむすぶ関門だったことに由来するのであろう。すなわち柏尾川から尾根をこえたところは武蔵国にぞくしていたので、防禦の地をしっかりおさえておきたいということから、山中の地ではあるが、金沢に通じる戦略的にも重要な交通路の道ぞいに、証菩提寺を建てるようになったのではあるまいか。
しかし、こうして造立された証菩提寺も、源頼朝の個人的信仰によって創建された寺であり、大衆の信仰によってささえられた寺でなかったために、源氏の滅亡とともに衰退の一路をたどったもののごとく、北条執権の代となると嘉禎元年(一二三五)北条泰時のむすめ小菅谷殿の建立した新阿弥陀堂に、寺院としての機能の中心は移ったらしく、たとえ新阿弥陀堂が頼朝建立の阿弥陀堂に付与せられていた供僧七口におよばぬ、供僧三口という小規模な寺院であったとしても、旧阿弥陀堂に関する史料が失われて、残存している役僧職の補任状・安堵状のすべてが新阿弥陀堂のものであることは、証菩提寺の正統をうけついだ、すなわち寺の中心が新阿弥陀堂へと移行していたことをしめしているといえよう。
これより先き、源実朝は建保三年(一二一五)証菩提寺に参詣し、翌年八月には北条義時は将軍の命によって与一義忠の追善供養をいとなみ、越えて建長二年四月十六日には堂宇再建の沙汰があって、清左衛門尉満定が奉行となり供僧として坊七宇、僧十一が当てられたという。降って江戸時代には慶安三年堂宇の大修理がなされるということもあったが、一面長い無住の時期もあり、次第に規模を縮小しつつ今日におよんだということがいえよう。昭和四十二年本堂を再建すると共に、重要文化財に指定を受けている弥陀三尊をまつる鉄筋コンクリート造りの収蔵庫を造営した。(「栄区郷土史」より)

栄区役所掲示による證菩提寺の縁起

證菩提寺
五峯山一心院といい古義真言宗高野山派の古刹である。江戸時代には手廣村青蓮寺の末寺だったが、古くは無量寿寺という獨立の寺だったと伝えている。『吾妻鏡』建長二年(1250年)四月の条に「證菩提寺」と記し、『鎌倉志』には「無量寺」と載せている。
寺の由緒については、治承四年(1180年)八月、配流の地伊豆をのがれた源頼朝は北條時政・土肥実平等の援けを受け石橋山で挙兵した。頼朝方は三百騎、迎えうつ平家方大庭景親俣野景久の三千騎と戦って敗れた。この時三浦介義明の弟、岡崎四郎義實の嫡男で二十五才の若武者佐那田与一義忠が暗闘の中で俣野景久と一騎討ちをして戦死した。頼朝はその間に闇にまぎれて戦場をはなれ、上総に逃れたと『源平盛衰記』に記す。その後頼朝は千葉・三浦・和田等の見方を得て鎌倉に入って一応の安泰を得ると、自分の身がわりのようになって戦死した佐那田与一の忠義に報い、その追善供養のためにこの寺の建立を発願して、文治五年(1189年)頃に完成した。当時の本郷地区は山内庄本郷と呼ばれ、鎌倉の艮(丑寅=東北)で鬼門(災難の来る方向)に当るので、忠義の佐那田を祀って供養すれば、必ず幕府鎮護になるという理由という。
寺の規模は、東は坂中(山手学院入口)及び小槻峰(尾月町)、南は矢沢木戸口(フローラ桂台)西は辺渕橋(稲荷橋)、北は竹後街道(元大橋)という広大な境内に、阿弥陀堂を中心として大日堂・中房・慈台房・実応房・智台房など七堂を配した幕府鎮護の大寺であった。はじめ寺の中心が阿弥陀堂だったので、阿弥陀の漢訳の無量寿を寺号としたらしいが、与一の父岡崎四郎の没後、これを大日堂に祀り岡崎堂と呼んで寺の中心が次第にこれに移ったので義実の法名「證菩提」を寺号とするようになった。
頼朝の死後は当初の意味が薄れ、寺は次第に衰退し、尼将軍政子の死後は更に衰え荒廃したので、三代執権北条泰時の娘で小菅ヶ谷に屋敷があったという小菅ヶ谷殿が施主となって、嘉禎二年(1236年)八月に「本郷新阿弥陀堂」が建立供養されたと「鶴岡社務職次第」に見えている。嘉禎三年は北条政子の十三回忌に当たり、北条家は法要を営み、翌年に「一切經五千余部」を三井寺圓城寺に寄進しているから、この新阿弥陀堂建立も北条政子の追善のためと考えられる。現證菩提寺は新・旧両阿弥陀堂の二体の阿弥陀如来がある。(栄区役所掲示より)

横浜市教育委員会掲示による證菩提寺の縁起

当寺は五峯山一心院と号す高野山真言宗の寺院です。源頼朝が挙兵の治承4年(1180)石橋山で頼朝の身替りとなって討死した佐那(奈)田与一義忠のために、建久8年(1197)創建したと伝えられています。
本尊「木造阿弥陀如来坐像」(寄木造)は、鎌倉時代の作で県の重要文化財に指定(昭和39年12月15日)されています。
客仏の「木造阿弥陀如来及び両脇侍像」(観音菩薩立像・勢至菩薩立像)は、寄木造で中央の定朝様式に習った鎌倉時代初期の作と考えられ、国の重要文化財に指定(大正14年4月24日)されています。
また、「證菩提寺文書(成巻文書11通)」が横浜市指定有形文化財(平成8年11月5日)となっています。
本堂裏の丘に義忠の実父岡崎四郎義実の墓といわれる小さな五輪塔があります、(横浜市教育委員会掲示より)


證菩提寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿