青蓮寺。鎌倉市手広にある高野山真言宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

飯盛山青蓮寺。鎖大師、準別格本山

青蓮寺の概要

高野山真言宗寺院の青蓮寺は、飯盛山仁王院と号します。青蓮寺は、弘法大師が諸国を巡錫した折、弘仁10年(719)鎌倉で修行、天女から授けられた仏舎利を、自身の五鈷に納めた翌日、青い蓮が咲いたことから青蓮寺を開山したと伝えられます。徳川家康の関東入国後の天正19年(1591)には寺領25石の御朱印状を受領、関東の真言宗檀林所の一つとして、数多くの末寺を擁していました。本尊の弘法大師象は、鎖大師と称され、像の両足の関節が鎖でつながれているもので、国重要文化財となっています。関東八十八ヶ所霊場59番、東国八十八ヵ所霊場88番です。

青蓮寺
青蓮寺の概要
山号 飯盛山
院号 仁王院
寺号 青蓮寺
本尊 弘法大師像
住所 鎌倉市手広5-1-8
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 鎖大師



青蓮寺の縁起

青蓮寺は、弘法大師が諸国を巡錫した折、弘仁10年(719)鎌倉で修行、天女から授けられた仏舎利を、自身の五鈷に納めた翌日、青い蓮が咲いたことから青蓮寺を開山したと伝えられます。徳川家康の関東入国後の天正19年(1591)には寺領25石の御朱印状を受領、関東の真言宗檀林所の一つとして、数多くの末寺を擁していました。本尊の弘法大師象は、鎖大師と称され、像の両足の関節が鎖でつながれているもので、国重要文化財となっています。

新編相模国風土記稿による青蓮寺の縁起

(手廣村)
青蓮寺
飯盛山仁王院と號す、古義眞言宗(高野山無量壽院末)弘法の開基にて中興は善海と云ふ、本尊不動(長三尺三寸智證作)及び愛染を安ず(長六尺五寸運慶作、)關東檀林三十四院の一なり天正十九年十一月寺領二十五石の御朱印を賜ふ、客殿に文和四年の半鐘をかく(高三尺五寸、圓徑一尺五寸、銘曰敬白奉施入、江島寺□鐘、右志者爲始從願主法阿、一紙半錢、結縁衆等、現世安穏、後生善處、乃至法界、衆生平等利益故也、文和四乙未年五月八日、願主法阿敬白、大工大和權守光連と鐫る、相傳て、古は江島の諸刹、皆當寺の末院なりしと云ふ、今に江島岩本院受戒の時は當寺にて、其式を行ふとあり、又江島に圓可寺と號せる末院ありしが、今は廢せり、若くは其寺の物なりしにやとも云ふ)
寺域の後山を飯盛山と云ふ(高十七八丈、)頂上に凹地(方二尺許)あり弘法大師護摩を修せし蹟と傳ふ、
【寺寶】
△東照宮御神影一幅
△兩界曼荼羅各軸(胎界は宅間筆、金界は唐筆と云、)
△愛染畫像一幅(弘法筆、)
△妙音辨天畫像(同筆)
△弘法大師自畫像一幅
△不動畫像二幅(一は覺鑁、一は智證筆、)
△種子兩界曼荼羅二幅(覺鑁筆、)
△十六善神畫像一幅(唐志敬筆)
△阿彌陀畫像一幅(同筆)
△釋迦畫像一幅(啓書記筆)
△五鈷一握(弘法手澤の物と云ふ、)
△水晶念珠一連(同上)
△制札一通(豊太閤小田原参陣の時、村里へ出せし物にて、當寺預る物にはあらず、且本書、相模國東郡と録し、村名は殊更に抹去せし物なり、)
△鐘樓。元は片瀬村法生廢庵の鐘なりしを、寶永七年現住快祐當寺に寄附す、
△神明宮
△辨天社。山の中腹に小盆池あり、辨天加持水と呼ぶ。旱には雩祭をなす、
△子神社
△支院寶積院。(手廣山薬王寺と號す、)本尊は薬師なり、
△彌陀堂。寶積院持、(新編相模国風土記稿より)


青蓮寺所蔵の文化財

  • 木造弘法大師象(国重要文化財)
  • 大壇礼盤(国重要文化財)
  • 曼荼羅金胎(鎌倉市指定文化財)
  • 銅造観音菩薩立像(鎌倉市指定文化財)

青蓮寺の周辺図