上中里神社|横浜市磯子区上中里町の神社

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上中里神社|不動堂として創祀、佐々木(笹下)八ヶ村の鎮守

上中里神社の概要

上中里神社は、横浜市磯子区上中里町にある神社です。上中里神社は、行基菩薩が当地巡錫の折に彫った不動尊を祀った不動堂として創祀、佐々木(笹下)八ヶ村の鎮守社だったといいます。明治維新後村社に列格、明治45年栗木神社に合祀されたものの、昭和22年当地に還座したといいます。

上中里神社
上中里神社の概要
社号 上中里神社
祭神 大日大神
相殿 -
境内社 -
住所 横浜市磯子区上中里町441
祭日 例大祭9月28日
備考 -



上中里神社の由緒

上中里神社は、行基菩薩が当地巡錫の折に彫った不動尊を祀った不動堂として創祀、佐々木(笹下)八ヶ村の鎮守社だったといいます。明治維新後村社に列格、明治45年栗木神社に合祀されたものの、昭和22年当地に還座したといいます。

新編武蔵風土記稿による上中里神社の由緒

(中里村)
稲荷社
除地、小名稲荷山にあり、石の小社西向、鳥居あり、天和二年間宮孫太郎俊信造營すと云、下三社亦同時同人起立す、間宮寺持、下同じ。
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太神宮
除地、小名中村の南方山上にあり、是も石の小社にて鳥居あり、下並に同じ。
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山王社
除地、同山の側にあり。
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山大明神社
除地、小名山の神にあり。
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駒形明神社
除地、小名駒形にあり。
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八王子権現社
除地、不動山の後一丁許にあり。
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間宮寺
除地、小名中村にあり、鎌倉道より二町餘、西南の方不動山の麓なり、故に不動山と號す、法華宗杉田村妙法寺末、寛文十二年間宮左衛門信久開基檀越として、開山僧福恩院日秀草創す、古は眞言宗にて關村東樹院の末寺なりしが、延寶年中今の宗に改む、其後間宮孫太郎俊信中興す、本尊三寶祖師、客殿四間に三間半東向。
不動堂
境内の山上にあり、前に石階數級、鳥居一基を建、縁起に云、人皇四十五代聖武天皇の御宇、行基菩薩勅宣を蒙り、諸國歴覧の時、偶此地に居住して、天下泰平諸願満足の爲、彫刻する處の像にて、長三尺一寸、佐々木八箇村の鎮守なり、遥の後寛永年中野火に延焼して、堂宇悉く灰燼と成し時、本尊何地にか失しに、其後夜々山下の田中より光明を發す、翌年三月農夫耕鋤し、果して失ふ處の靈像を田中に得たり、村民子来して此堂を再建す、彼山麓の水田を御體堀と呼べり、今木造の背に鍬の痕あるは、土中出現の一證なりと云、又前に火災の時、矜迦羅・制多迦の二童子も失ひ、山麓の水田を尋しかど得ず、後年二尊ともに境内稚樹の洞中より出現云々とあり、不動は立身三尺一寸、二童子は共に長六寸許の立像あり、例祭正月二十八日、九月二十八日に執行す。
地神社、堂に向て左にあり、神體長一尺許、立身にて左手に鎗を提て、右手に食物を入たる器を持つ。
白山社。堂に向て右にあり、神體立身長三寸許。
荒神社。同邊にあり、小社。 (新編武蔵風土記稿より)

神奈川県神社誌による上中里神社の由緒

創立年代は不詳であるが、もと上中里町の氏神として崇敬せられた笹下明神社である。明治初年村社に列したが、同四十五年五月、日下村大字栗木の村社日枝神社(現栗木神社)に合祀せられて上笹下神社と称した。昭和二十二年四月、氏子一同の熱望により、旧社地に、神殿を奉建し、社名を上中里神社と改称、神社本庁所属の神社として旧に復した。(神奈川県神社誌より)

境内石碑による上中里神社の由緒

上中里神社
聖武天皇の御宇(今から、一二四〇年ぐらい昔)に、行基菩薩が天皇の命を受け、諸国遍歴の折、たまたまこの地に滞在して、天下泰平諸願満足の祈願をし不動明王の立像を彫刻して、ここ上中里の小高い丘に祀り、笹下六ヶ村の鎮守としました。
それから遥か後、寛永年中に野火にあって堂宇ことごとく焼失しました。その後夜になると田の中から光を発する処があり、村人が其の場所から不動尊の像を掘り出しました。さっそく不動山の頂に堂宇を再建してこの像を祀り、再び村の氏神様としました。矜羯羅・制多迦の二童子も失っていましたが、境内の古樹の洞穴から出現したといわれています。
その後、国の方針で明治四十五年五月、日下村大字栗木の村社に合祀されて、上笹下神社として祀られましたが、昭和二十二年四月氏子一同の熱望により、この地に社殿を奉建して還幸祭を行い、そして昭和四十一年九月社殿を建てかえ、昭和五十四年九月、社殿増築、鳥居復元、境内整備等を行って、現在に至っています。(境内掲示より)


上中里神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿