祥雲寺|豊島区池袋にある曹洞宗寺院

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瑞鳳山祥雲寺|豊島区池袋にある曹洞宗寺院

祥雲寺の概要

曹洞宗寺院の祥雲寺は、瑞鳳山と号します。祥雲寺は、天文元年(1532)江戸城主遠山隼人正景久の室(北条上総介綱成の娘、法号浄光院)の菩提所として江戸城和田倉門内に起立、永禄7年(1564)吉祥寺二世太洲安充が開山、浄光院と称していたといいます。德川家康入府により、吉祥寺が駿河台、日向金杉、小石川戸崎町へ移転するのに伴い当時も移転、松本藩戸田氏の菩提寺であったといいます。宝永6年(1709)五代将軍徳川綱吉の死に伴い御台所が出家し浄光院と号したため、松本藩戸田氏の法号に因んで祥雲寺と改称、小駿河台、日向金杉、小石川戸崎町への移転を経て、大正4年当地へ移転しました。境内には漫画家石ノ森章太郎の墓があります

祥雲寺
祥雲寺の概要
山号 瑞鳳山
院号 -
寺号 祥雲寺
住所 豊島区池袋3-1-6
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 祥雲寺
備考 墓地募集中、豊島八十八ヶ所霊場7番札所



瑞鳳山祥雲寺の縁起

祥雲寺は、天文元年(1532)江戸城主遠山隼人正景久の室(北条上総介綱成の娘、法号浄光院)の菩提所として江戸城和田倉門内に起立、永禄7年(1564)吉祥寺二世太洲安充が開山、浄光院と称していたといいます。德川家康入府により、吉祥寺が駿河台、日向金杉、小石川戸崎町へ移転するのに伴い当時も移転、松本藩戸田氏の菩提寺であったといいます。宝永6年(1709)五代将軍徳川綱吉の死に伴い御台所が出家し浄光院と号したため、松本藩戸田氏の法号に因んで祥雲寺と改称、大正4年当地へ移転したといいます。

「豊島の寺院」による祥雲寺の縁起

天文元年(1532)和田倉門内に起立、永禄7年(1564)完成、浄光院と号す。天正18年(1590)神田台に移る。慶長3年(1598)小日向金杉村に移る。寛永6年(1628)祥雲寺と改称。寛永13年(1636)小石川戸崎台に移る。安永、天保、安政と三度炎上。大正4年(1915)池袋へ移る。(「豊島の寺院」より)

豊島区教育委員会掲示による祥雲寺の縁起

瑞鳳山祥雲寺
祥雲寺は後北条氏の重臣江戸城主遠山隼人正景久によって、永禄七年(一五六四)に江戸城和田倉門内に駒込吉祥寺の末寺として創建されたのが始まりで、開山は吉祥寺安充和尚である。当初は景久の室(北条上総介綱成の娘)の菩提所として法号にちなみ浄光院と称し、永禄七年に戦死した景久の法号から瑞鳳山浄光院と号した。
天正十八年(一五九〇)後北条氏滅亡にともない遠山氏も退転したため、しばらく吉祥寺の隠居所となり、神田台(駿河台)、小日向金杉、小石川戸崎台と移転した。寛永六年(一六二九)に信州松本藩戸田氏が檀越となり、数度の火災の復興に際しても多大な尽力をした。宝永六年(一七〇九)、五代将軍徳川綱吉の死により御台所が落飾して浄光院殿と称したのち憚かり、戸田氏最初の檀越康長の法号により瑞鳳山祥雲寺と改号した。
当地への移転は明治三十九年であり、重宝類は昭和九年の火災に焼失したl。現在の本尊の薬師如来は胎内銘によれば、天正十七年(一五八九)の造立になるという。墓地には戸田家代々の墓、酒豪として知られた三浦樽明、首斬り浅右衛門の七代山田浅右衛門などの墓がある。(豊島区教育委員会掲示より)


瑞鳳山祥雲寺の周辺図