常楽院阿弥陀堂|台東区池之端にある天台宗寺院

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常楽院阿弥陀堂|台東区池之端にある天台宗寺院

常楽院阿弥陀堂の概要

天台宗寺院の常楽院阿弥陀堂は、池見山と号します。常楽院阿弥陀堂は、第二次世界大戦後に調布市へ移転した福増山常楽院の別院です。福増山常楽院は、行基菩薩が創建、慈覚大師が中興したと伝えられ、行基菩薩が一木から阿弥陀仏を六体(木余り・木残りを含め八体)刻んだと伝えられる江戸六阿弥陀巡礼の五番として参詣者で賑わっていました。常楽院は上野ABAB付近にあったものの、戦災により焼失し調布へ移転しましたが、東天紅の厚意により当地に模刻を祀っているそうです。

常楽院阿弥陀堂
常楽院阿弥陀堂の概要
山号 福増山
院号 常楽院
寺号 -
住所 台東区池之端1-4-1
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



常楽院阿弥陀堂の縁起

常楽院阿弥陀堂は、第二次世界大戦後に調布市へ移転した福増山常楽院の別院です。福増山常楽院は、行基菩薩が創建、慈覚大師が中興したと伝えられ、行基菩薩が一木から阿弥陀仏を六体(木余り・木残りを含め八体)刻んだと伝えられる江戸六阿弥陀巡礼の五番として参詣者で賑わっていました。常楽院は上野ABAB付近にあったものの、戦災により焼失し調布へ移転しましたが、東天紅の厚意により当地に模刻を祀っているそうです。

境内掲示による常楽院阿弥陀堂の縁起

聖武天皇の頃(七二四〜七四九)、武蔵国足立郡(今の東京都足立区)に沼田の長者と呼ばれる庄司(荘園を管理する人)従二位藤原正成という人がいて、多年子宝に恵まれずにいたが、ある時、熊野権現(和歌山県)に詣でて祈願したところ、ご利益を得てようよう一女を授かった。
この息女は足立姫と呼ばれた程にみめ美しく、仏を崇い、天質聡明であったが、隣りの郡に住む領主豊島左エ門尉清光に嫁がせると、領主の姑が事々に辛くあたり悲嘆の日々を送ることになった。
そしてある時、里帰りの折りに思い余って沼田川(現荒川)に身を投げ、五人の侍女もまた姫の後を追って川に身を投じたのであった。
後日、息女らの供養に諸国巡礼の旅に出た長者が再び熊の権現に詣でたところ、夢に権現(衆生を救うために日本の神の姿をとって現れる仏)が立ち、一女を授けたのはそなたを仏道に導く方便であった、これより熊野山中にある霊木により六体の阿弥陀仏を彫み広く衆生を済度せよ、と申されたのであった。長者が熊野山中を探し歩くと果たして光り輝く霊木をみつけ、長者は念を込めてその霊木を海に流したのである。長者が帰国してみると霊木は沼田の入江に流れ着いており、間もなくこれも先の夢のお告げの通りに、諸国巡礼の途に沼田の地に立ち寄られた行基菩薩に乞打て六体の阿弥陀仏を彫り、六女ゆかりの地にそれぞれお堂を建ててこれを祀ったのである。
江戸時代に入り、この六阿弥陀を巡拝し、極楽浄土を願う信仰が行楽を伴って盛んになり、特に第五番常楽院は上野広小路の繁華街(現ABAB赤札堂地)にあったので、両彼岸などは特に大いに賑わい、江戸名所図絵にも描かれている。広小路のお堂は、関東大震災と第二次大戦期の焼失を経て、ご本尊阿弥陀さまは調布市に移ったが、参詣の便を図って縁のある上野池之端、此東天紅の敷地を拝借して別院を設け、模刻の阿弥陀さまをお祀りしている。
六阿弥陀第五番常楽院(境内掲示より)


常楽院阿弥陀堂の周辺図