忠綱寺|台東区池之端にある真宗大谷派寺院

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向岡山忠綱寺|渡邉忠綱の弟吉綱が創建

忠綱寺の概要

真宗大谷派寺院の忠綱寺は、向岡山渡邉院と号します。忠綱寺は、寛永元年(1624)、渡邉忠綱の弟吉綱が、神田台に渡邉院忠綱寺と名を冠して創建、火災で焼失し、寛永8年当地へ移転、向岡山渡邉院と改号したといいます。

忠綱寺
忠綱寺の概要
山号 向岡山
院号 渡邉院
寺号 忠綱寺
住所 台東区池之端2-5-43
宗派 真宗大谷派
葬儀・墓地 -
備考 -



忠綱寺の縁起

忠綱寺は、寛永元年(1624)、渡邉忠綱の弟吉綱が、神田台に渡邉院忠綱寺と名を冠して創建、火災で焼失し、寛永8年当地へ移転、向岡山渡邉院と改号したといいます。

「下谷區史」による忠綱寺の縁起

忠綱寺(池之端七軒町五六番地)
京都大谷派本願寺末、向丘山渡邊院と號す。本尊阿彌陀佛。文政寺社書上によれば、寛永元年三月神田臺に起立。同六年二月二十一日焼失し、同年八月十七日現地に移建したのである。然るに今、寺傳には建立の日を寛永三年三月二十二日とし、はじめより現地の如くに記してある。開基は麾下の士渡邊忠七郎忠綱。忠綱は同姓忠右衛門尉重綱の三男、元和九年七月二十二日二十歳を以て卒した。遺領武蔵比企郡野本村三千石はその弟(重綱の五男)吉綱が繼ぎ、兄に報恩のため當寺を創建し、忠綱を開基とし、その名を取って寺に名けたのである。そして同姓綱貞の二男半九郎正綱は生前忠綱の歸依してゐた本願寺第十三世宣如の弟子となつて出家し、法名順如と稱してゐたが、入つて當てっらの住職となつた。(「下谷區史」より)

御府内寺社備考による忠綱寺の縁起

東本願寺末 下谷池之端 
向岡山渡邉院忠綱寺、境内拝領地380坪余。
寛永元年3月神田台にて一宇を起立仕。渡邉忠綱之文字を執り渡邉院忠綱寺と号す。同6年2月21日焼失。同年8月17日下谷池之端当時之地ヘ引移申候。
山号之儀者此辺不忍の池の向に当り、惣て此所を向岡と称へ申候。当寺之巳前ハ真言宗大照院と申寺跡にて、当寺此地に引移候てより地名をかたとり向岡山と申。或ハ南光坊僧正より故有て名付賜ハるとも申伝候。右之南光坊真筆之額有之候処、元禄之類焼に焼失仕候。又七条袈裟を賜候得とも中昔紛失候よし申伝ニ候。
開基忠綱院釈宗円居士。元和9年7月22日卒。俗名渡邉忠七郎忠綱。尾州渡邉半蔵守綱之息男ニ候哉。渡邉家先祖之画像等有之候。
開基釈順加孤岸法師。寛文6年5月11日卒。
客殿。本尊阿弥陀如来、木立像丈4尺2寸余、伝教大師作、又恵心僧都作トモ云。親鸞聖人画像、右正徳3年東本願寺宣如上人より免許。聖徳太子画像、右寛文2年琢如上人より免許。三朝七祖画像、免許同断。
撞鐘、無名。右元禄5年大檀方渡邉安芸守死去ニ付、為報恩撞鐘建立。記録御座候。(御府内寺社備考より)


忠綱寺所蔵の文化財

「渡邉の綱」・「槍の半蔵」由縁の寺

「渡邉の綱」・「槍の半蔵」由縁の寺
当、忠綱は人皇52代に始まる所謂嵯峨源氏の流れをくみ左大臣源融から4代後の源綱が摂津の国、渡邉に住まいしたところから姓を渡邉と名乗るようになる。羅生門の鬼退治で有名な「渡邉の綱」がこの源綱である。更にこれより23代目が渡邉半蔵源守綱である。譜代である徳川家康に弘治3年(1557)16才で出仕する。桶狭間の戦いより2年後の永禄5年(1562)三河八幡の戦いで今川の将、板倉弾正の率いる敵と戦い防戦一方になる時その殿りを任せられる。半蔵大いに奮闘し敵将山下八郎三郎と槍を合わせその首級をあげその間に味方の士を数十人救って無事退却させた。家康大いに称揚し以後「槍の半蔵」の異名で知られることとなる。この後三千石を武蔵比企にて賜り更に数々の武功により三千石を分領されるが20才にて夭逝する。弟大学が兄の所領「武蔵比企」を継ぎ丹後守由綱となる。兄思いの吉綱は神田台に渡邉院忠綱寺と名を冠し一寺を建立しその菩提を弔った。その後下谷池之端の現在地に移ったものである。
吉綱は四代将軍家綱の信任を受け御小姓番頭、御書院番頭と進み大阪定番となりまして一万石の加増を受け和泉国伯太藩1万3500余石の大名になり明治まで続く。(境内掲示より)

忠綱寺の周辺図