誓教寺|台東区元浅草にある浄土宗寺院

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瑞亀山誓教寺|葛飾北斎の墓所

誓教寺の概要

浄土宗寺院の誓教寺は、瑞亀山弘願院と号します。誓教寺の起立年代等は不詳ながら、善蓮社貞誉上人浄求閑悦和尚(慶安元年1648寂)が開山となりしたといいます。当寺は江戸後期の著名な浮世絵師で葛飾流の始祖葛飾北斎の墓所で、葛飾北斎の偉業を称えた銅像・石碑が奉納されています。

誓教寺
誓教寺の概要
山号 瑞亀山
院号 弘願院
寺号 誓教寺
住所 台東区元浅草4-6-9
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



誓教寺の縁起

誓教寺の起立年代等は不詳ながら、善蓮社貞誉上人浄求閑悦和尚(慶安元年1648寂)が開山となりしたといいます。

御府内寺社備考による誓教寺の縁起

京都知恩院末 浅草新寺町 
瑞亀山弘願院誓教寺、境内古跡拝領地651坪、門前町有之。
起立不詳。
開山善蓮社貞誉上人浄求閑悦和尚、慶安元年6月10日遷化。
中興称蓮社揚誉上人勇阿慈徹和尚、寛政9年11月11日遷化。
本堂、本尊阿弥陀如来木立像。(御府内寺社備考より)


誓教寺所蔵の文化財

  • 葛飾北斎墓(東京都指定旧跡)
  • 絹本着色骸骨図(台東区登載文化財)
  • 紙本墨画淡彩達磨図(台東区登載文化財)

都旧跡 葛飾北斎墓

葛飾北斎は、本所で生まれ、障害に30回以上の改名、93回の引越しを重ねたそうです。嘉永2年(1849)、山谷堀遍照院裏店で90歳で没しました。

江戸後期の著名な浮世絵師で葛飾流の始祖である。本姓は中島、名ははじめ時太郎のち鉄蔵といった。号は春朗、宗理、可候、画狂人、卍翁など三十余ある。宝暦10年(1760)9月江戸本所割下水で生まれ、父は徳川家用達の鏡師中島伊勢といった。十四、五才の時彫刻師に学び、十九の時に浮世絵師勝川春章の門に入ったが、ひそかに狩野派の画法を学び師の知るところとなり破門。以来土佐派、淋派、洋風画、中国画などを学び独自の画境を開いた。肉筆画、版画、絵本、さし絵などに手腕をふるい、特に風景画は広重とともに称賛され、「富岳三十六景」をはじめ傑作が多い。彼の作品はヨーロッパに多く流れ、フランスの印象派の人びとに大きな影響を与えた。(東京都教育委員会)

絹本着色骸骨図

満月に照らされ、浮かび上がる岩と笹竹をバックに、灯籠を提げて立つ骸骨の姿が描かれています。月の外縁、画面右端部、画面最下部及び骸骨の骨格まわりに薄く墨隈をほどこし、影を表現しています。
表現は全体的に墨画風ですが、骸骨をはじめとする諸景物の細部における執拗なまでの描写、割筆を用いた土坡、点苔や笹の葉脈を示す藍、竹の節の白、灯籠の房と周縁部に見られる朱の鮮やかな色彩の使用などから、幻想的な中にも生々しさを感じさせます。
また、骸骨の周囲の影は髪の長い女性の立ち姿を見立ててあり、灯籠の吊り具は絵師の画号の「卍〈まんじ〉」型に描くなどの意匠も特徴的です。
本図の作者は、江戸時代後期の著名な浮世絵師、葛飾北斎(1760-1849)。画面右下の落款により、「己酉」、嘉永2年(1849)の正月、北斎90歳の時の作品とわかります。北斎が浅草聖天町遍照院(現浅草六丁目)境内の長屋で没したのは、数えで90歳、嘉永2年4月18日のことです。画中の「己酉正月九十老人卍筆」の款記は、本図が北斎最晩年の作の一つであることを示しています。大きさは、縦125cm、横77cm。
北斎の描く骸骨といえば、錦絵の連作『百物語』中の『小はだ小平二』がよく知られていますが、本図のような本格的な骸骨図はほかには例がありません。北斎は、文化3年(1806)頃、接骨家名倉弥次兵衛に入門し、人体の骨格の勉強をしたといわれ、本図を描くに当たっては、このときの経験を参考にしたことは容易に想像できます。 しかし、人体の骨格の細部までが世に知られるようになったのは、安永3年(1774)における日本初の本格的西洋医学書の翻訳書『解体新書』の刊行、またそれに続く蘭学者たちの業績によるものが非常に大なるものでした。同時代に生きた北斎も蘭書を見ている可能性が大きいと思われます。
大槻玄沢が杉田玄白より増補改訂を命ぜられて文政9年(1826)に刊行した『重訂解体新書』の付図『銅版全図』中の「全骸前図」には、肋軟骨が描かれていますが、本図にはこれが欠けています。天保7年(1836)上演の歌舞伎を描いた歌川国芳の錦絵『相馬の古内裏』や、増補改訂以前の小田野直武の手になる『解体新書付図』には肋骨と肋軟骨の区別がされていることなどから、北斎は直接蘭学者の手ほどきは受けておらず、『銅版全図』に代表されるような、書物を手本として描いたものと考えられます。
本図は、『恠談牡丹灯籠』の元となった明の瞿祐作『剪燈新話』に依拠していると思われます。『恠談牡丹灯籠』は、三遊亭円朝作の有名な怪談で、明治17年に『恠談牡丹灯籠』として速記本が刊行されました。その執筆は、円朝自身の回顧によると、文久元年(1863)であり、本図制作時より14年後のことです。
北斎が題材にしたと思われる中国の怪談集『剪燈新話』は、日本では浅井了意によって翻案され、寛文6年(1666)『伽婢子』として、内容も日本向きに直して刊行され流布しました。明治時代以後に牡丹灯籠を題材にした絵画の大部分は、円朝が作り出したお露とお米の二人を同時に描きますが、これに対し本図は、亡霊となった一人のみを描いています。また、『剪燈新話』『伽婢子』ともに、灯籠に牡丹の花を配していますが、本図では牡丹の花は描かれていません。
以上のように、本図は、物語を絵画化するにあたっての、北斎独自の感性がよく表現されている作品で、その画題に選んだ『牡丹灯籠』は、その画歴を考える上で非常に重要です。
誓教寺では、現在でも墓参する方が後を絶たず、毎年命日の4月18日は「北斎忌」として彼の偉業を偲び法話会が開かれています。

紙本墨画淡彩達磨図

本図は、江戸時代後期を代表する浮世絵師、葛飾北斎(1760-1849)の墓所がある誓教寺に所蔵されています。達磨の全身を横から描いたもので、大きさは縦107.8cm、横38.8cm。着衣のひだには、粗い描き方の没骨描を、顔や足は淡い墨線で輪郭をとり、肌の色は淡い色彩を用いています。背景は、全面に淡い墨によって地塗りがなされています。背景にところどころ、薄く浮き上がったように見える、縦に連続する短い横縞の文様は、畳の上に紙を直接置いて描いたために出来た跡です。
本図は、銘文やその画風により北斎の肉筆画と知られます。おそらく書画会の席上で描かれた即興的な絵画でしょうが、その手慣れた流れるような筆づかいに、なみなみならぬ画家の技量をうかがわせる作品です。
右下に墨書で「画狂人北斎画」と記されます。北斎が「画狂人北斎」と名乗った年代は、享和元年(1801)正月~文化3年(1806)6月(北斎42歳-47歳)なので、ほぼこの時期に描かれたと考えられます。
北斎もこの時代の文化人の例にもれず、享和・文化・文政年間(1801-1830)に書画会への参加が認められます。特に、友人であり仕事も一緒にした戯作者、曲亭馬琴(1767-1848)の影響によって、文化人との交際が広範囲になったと推測できます。
なお、誓教寺には、『絹本着色骸骨図』1幅(平成7年度区民文化財として文化財台帳に登載されました)も所蔵されています。毎年4月18日(北斎忌)には、その偉業を偲ぶ法話の会が開かれ、本図も含めた北斎の作品が展示されています(通常は非公開です)。


誓教寺の周辺図


参考資料

  • 御府内寺社備考