篠塚稲荷神社|台東区柳橋の神社

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篠塚稲荷神社|篠塚伊賀守重廣が祈願していた社

篠塚稲荷神社の概要

篠塚稲荷神社は、台東区柳橋にある稲荷神社です。篠塚稲荷神社の創建年代は不詳ですが、正平年間新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣が当地にあった稲荷社に祈願を続けていたことから、「篠塚稲荷」と称されるようになったといいます。延宝9年(1681)には篠塚山玉蔵院宗林寺となったものの、明治維新の神仏分離令により廃寺となり、篠塚稲荷神社が残ったといいます。

篠塚稲荷神社
篠塚稲荷神社の概要
社号 篠塚稲荷神社
祭神 倉稲魂命
相殿 -
境内社 -
住所 台東区柳橋1-5-1
備考 -



篠塚稲荷神社の由緒

篠塚稲荷神社の創建年代は不詳ですが、正平年間新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣が当地にあった稲荷社に祈願を続けていたことから、「篠塚稲荷」と称されるようになったといいます。延宝9年(1681)には篠塚山玉蔵院宗林寺となったものの、明治維新の神仏分離令により廃寺となり、篠塚稲荷神社が残ったといいます。

境内石碑による篠塚稲荷神社の由緒

当社の創起年代は詳らかではないが古記に「大川辺に高き丘あり篠生い茂り里人ここに稲荷神を祀る」とあれば悠久の昔より奉斎し奉りあり。
正平年間新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣主家再興の祈請をなし来国光の刀を神前に捧げ社傍に庵を結びて出家し日夜参篭怠らず為にいつしか篠塚稲荷大明神と尊称するに至った。延宝九年三月神社別当僧たる伊賀守子孫に醍醐寺三宝院御門跡より篠塚山玉蔵院宗林寺の称号を賜り元禄六年二月本多紀伊守殿寺社奉行の折には御府内古跡地と定められたが明治初年神仏分離の際玉蔵院は廃せられた。
古来より商売繁昌火防神として厚く尊崇奉る。(境内石碑より)

東京都神社名鑑による篠塚稲荷神社の由緒

創祀の年代は許かでないが、正平年間(一三四六-五六)、新田義貞の家臣、篠塚伊賀守重廣が、主家の興隆を祈誓して、来国光の刀を神前に捧げ、稲荷の社の傍に庵を結び奉仕したという。ゆえに、篠塚稲荷と呼称されている。昔は、玉蔵院が別当であったが、明治以降榊神社の兼勤の社と定められ、祭事怠ることなく奉仕し、現在に至っている。(東京都神社名鑑より)

御府内寺社備考による篠塚稲荷神社の由緒

篠塚稲荷社
浅草不唱小名
篠塚稲荷社、社地二十四坪外除地十五坪
当社起立年月不相知但
権現様 御入国之時開山清山法印六代前秀海法印此宮を預り奉る也。古き翁の物語に曰、此稲荷まします故に稲荷野と申候由。其頃今の神田川の岸に向て有。その後享保四亥の五月、今の地に鎮坐、当所の鎮守と仰奉る。享保三戌年十二月十一日、上野より出火にて類焼す。同月御用地二被 召上、同四年亥四月廿二日、松平市正殿上ケ屋鋪之内にて元坪之通被下置候。
本社、間口一間六寸奥行二間。拝殿、間口一間六寸奥行二間半。
祭神 咜枳尼天、木像。丈六寸自狐二乗玉フ。
相殿二坐 不動明王 天満宮
祭礼。二月初午ノ日並正五九月、御湯花神楽執行。
正月五日、天下泰平御武運長久御祈祷。同六日御札奉献上侯。
神木柳太サ六尺程一株。
氏子町左之通。平右衛門町上下、茅町一丁目。
篠塚稲荷大明神縁起。
抑武州豊嶋郡茅原里鎮座まします正一位篠塚稲荷大明神と申奉るは、祭神咜枳尼天にして、千載の旧社勧請の始年代遠(貌にしんにょう)にして、草創知かたし。今伝に載する所、古老の言伝のところ、中頃神徳の感応によって篠塚稲荷大明神と号し奉る由縁を尋奉るに、往昔南朝後村上帝正平の頃、新田義貞の家臣に、篠塚伊賀守重広、西国の軍破れて後、重広ひそかに東国に廻り来て所々流浪せしか、再ひ新田の御子孫を世に出し奉り、義兵を起して、
朝家の忠勤をもなさしめ奉らはやと思ひ、しはらく隠れ居て世の有様を窺ふ。其頃は、当所の古名を茅原の里といふ。又稲荷の社ある故に、稲荷のと申せし也。重広精忠の志によりて、日々にいなりに詣て、主君新田家の開運を祈り奉り、丹誠怠らす、或時此社へ終夜参籠して例のことく祈誓し、神殿に暫しまとろミたる夢に、神霊のあらたなる御告あり。汝か精忠の志をもって神に祈ること感歎余り有。然れとも天数未至らす、急にハ叶
ふへからす。武門の棟梁と成て上 天子を保佐し、下万民を安んすへき。賢明の君後来必新田の子孫にあるへし。是なんしが真忠を神明納受ましまして天命既に定る所なりと。正しき神託を蒙り奉しかハ、重広感涙ととめ難く、神徳のいちしるき事を感し奉り、神の御告斯のことく成る上は、今俄に御開運ハなくとも末代必す御子孫世に出玉ふ事疑ひなしと。歓の余り尚も行末のことを祈奉るとて一首の歌を詠奉る。
をしからぬ身を東路にめくり来て神に誓を申おく也 と詠て奉り、猶又身に帯したる来国光の刀を神前に捧け、其身ハ仏門に入て稲荷社の側に庵を結ひ、信心おこたらす。是よりして神号をいつとなく篠塚稲荷と申奉るよし。此車重広入道の子孫、秀海法印、此宮を預りし事、清山法印の筆記に見へたり。当社ハ元禄の頃迄神田川の岸に向て地境も広かりしを、江戸御繁栄と成しより、町家建込て僅に社頭の辺のミ残れり。享保四年亥九月、今の地に移りて鎮座ましまし、当所の鎮守と仰き奉る。霊験日々にあらたに座しますこと世以て知る所也。延宝九年三月十三日、醍醐御所より篠塚山宗林寺の号を下し給ハり、元禄六年発酉二月十二日、寺社御奉行より 御府内古跡地と定られし也。当時神体開基重広入道信仰ありしより、篠塚伊賀守守本尊と成るよし。地内に(石白狐並ニ石燈籠在)例祭二月初午を以て神祭を勤む并正五九月、町内安全の湯花神楽修行。当代に至る迄子孫連綿奉祀して神徳を仰き奉るもの也。
別当篠塚山宗林寺玉蔵院、京醍醐三宝院末
右寺山院号、延宝九年三月十三日、醍醐御所より下し玉ハる。十五坪借地住居仕候。
開山清山法印 元禄八年乙亥三月四日寂。
以上乙酉書上
浅草御門の橋を渡り、右の方かや町のうちに、篠塚大明神の社あり。昔此所へ天より一ッの石ふれり。其石に篠塚大明神と書付あり。所のもの奇異のおもひをなし、今の社にうつし奉りたるに、篠塚大明神ハ稲荷大明神たるよし御告ありLより、稲荷大明神と申(紫一本)。
新田義貞の臣、篠塚伊賀守流浪し当所にありしか、故主の祈願のため、稲荷を勧請しけるといへり。又説に、此所に一ツの石降る。その石に篠塚大明神としるしてあり。是ハ稲荷の告なりと云(江戸砂子)。
江戸志に参考太平記を引て、篠塚伊賀守武蔵国に生長のよしをしるし、然は後に武州に来りて本国なれハ此地に隠れ住ける事もありなんと云(江戸図説)。 (御府内寺社備考より)


篠塚稲荷神社の周辺図