黒船稲荷神社|台東区寿の神社

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黒船稲荷神社|平貞盛・藤原秀郷が造営

黒船稲荷神社の概要

黒船稲荷神社は、台東区寿にある稲荷神社です。黒船稲荷神社は、平将門の乱を平定した平貞盛・藤原秀郷が造営、黒船稲荷大明神と号して天慶3年(940)に創建、藤原秀郷は、財宝を積んだ黒船に白狐がいる霊夢を見、墨田川の浜の石上に当社を勧請したといいます。江戸時代に入り散穂稲荷大明神、紅葉山稲荷大明神を合祀、黒船三社稲荷大明神と称されたといいます。

黒船稲荷神社
黒船稲荷神社の概要
社号 黒船稲荷神社
祭神 倉稲魂命
相殿 -
境内社 -
住所 台東区寿4-3-1
備考 -



黒船稲荷神社の由緒

黒船稲荷神社は、平将門の乱を平定した平貞盛・藤原秀郷が造営黒船稲荷大明神と号して天慶3年(940)に創建、藤原秀郷は、財宝を積んだ黒船に白狐がいる霊夢を見、墨田川の浜の石上に当社を勧請したといいます。江戸時代に入り散穂稲荷大明神、紅葉山稲荷大明神を合祀、黒船三社稲荷大明神と称されたといいます。

東京都神社名鑑による黒船稲荷神社の由緒

当社はもと「黒船三社稲荷社」と呼ばれ、天慶三年(九四〇)に、平貞盛が藤原秀郷と協力して将門の本拠を攻めたのち、黒船稲荷大明神を祀ったのがはじまりと伝えられている。中世には一時衰弱したが、江戸時代のはじめ寛永年間(一六二四-四四)のある秋に、釈妙圓尼が再興した。享保十七年(一七三二)には、浅草通り黒船町河岸の南西に祀ってあったが、同年三月の大火で類焼し、その後、替地を賜わり現在に至っている。(東京都神社名鑑より)

御府内寺社備考による黒船稲荷神社の由緒

浅草黒船町代地
黒船三社稲荷社、拝領地百二十坪七間半奥行十六間裏巾七間半
天慶三年五月、平貞盛藤原秀郷東州平定之時造営して黒船稲荷大明神と号す。中世衰廃せしを、寛永年中、釈妙円尼再興し、別当泉住寺を起立す。其後享保十七子年迄浅草通黒船町東側南河岸迄両面ニ候処、同年三月廿八日類焼之後、御蔵火除御用地二被 召上、代地として当所を賜ハり候。
本社、土蔵間口二間二尺奥行九尺。拝殿、方二間。祭神三坐黒船稲荷、丈一寸八分運慶作。
散穂稲荷、丈二寸五分。紅葉山稲荷、白狐石ト号ス一寸斗ノ石也。
相殿両輪弁天木坐像。丈一尺二寸開基、妙円比丘尼、竹生嶋弁天参籠之時、感得之像ト云。
此余宇賀神金毘羅不動十一面観音安置。
宝物
一御紋附戸帳、水戸養泉院殿御奉納
一金幣台附三本、同上
一菓子台、梨地御紋附御寄附人同上一箇
一赤地錦水引一張
裏書二天下泰平四海静謐御武運長久祈攸荻原近江守取次之 妙円尼駒井衛門梅寸浄月院ト記ス。

黒船三社稲荷大明神鎮座記文左之通
武州豊鳥郡些戸浅草黒船三社稲荷大明神は、人皇六十一代朱雀天皇天慶二年、平将門関東を押
領し下総国猿嶋の郡に居住して自ら平親王と号す。因茲同三年春二月、平貞盛・藤原秀郷、勅を奉り奥常野武の兵を挙て大小是を撃破り、貞盛遂に自ら将門を射、秀郷進んてその首を得たり。東州悉く平定す。同五月東征の勲功として、秀郷従四位下ニ叙し、相模の国主に任し、並て武州豊嶌郡及ひ数郡を賜ふ。或夜秀郷夢らく、蒼海漫々たる沖に大ひ成る黒船あり。貸財岡のことく積ミ、傍に神人あり。白狐左右に列す。時に神人秀郷に告て日、我ハ是倉稲魂也。汝常に吾を信ス。故に尓現せり。永く家門の擁護とならん。また一瑞を顕さん。汝か分領入間川の浜の石上に、白狐在住する処、是我有縁の地也と。秀郷覚て心決せす、潜に入間川の辺を回視するに、果して石上に白狐蹲踞す。秀郷を見て堤の上に走隠る。其行跡を見失、秀郷符合の神託を感し、自らその石を取揚、神体とし、白狐の登りし岡の上に社を造営し、夢中の容像を象りて、黒船稲荷大明神と号せらる。是尊敬厚ふして宮殿門廡整々として、神威魏々然タリ。既にして后中古久しく、戦国ニて新田・足利の確執、北条・上杉の鯨波、此地戦士たり。故に宮殿焦土ト成り、社地荒廃して殆泯滅に至らんとす。此艱難の間ニ有志の人僅に一祠を建立して、神体を安置し、幸に神跡を失さらしむ。然して日去月往て関東漸く平均し時哉神君江城に移らせ玉ひ、繁花日を追て入間川の浜ミな市町と成る。今社前の街区を黒船町と称するも当社の神号に拠るもの乎。爰に近世寛永のころ釈妙円尼近江国産姓ハ佐々木社地の衰微を歎き、祠の側ニ茅屋を設け、晨夕社前に給仕し、時々鎮座の容易ならさる事を演説す。是に於て土人始て社祠の来由尚事を知り、緇素更に霊験の感応貴き事を敬ふ。終に艸宝を泉住寺と名し、和光の灯あきらかに絶す撥くる便とす。然しより神威上古に復起し、参詣の衆人祈願満足し霊瑞日々に新にして、其神徳を蒙る者勝て不可量。

散穂稲荷大明神縁起文左之通
武江の金城は、旧大田道灌是を経営す。道灌始て郭を築んとするの時、肥後の国より大石数多船こて渡海す。時に逆風俄に起り、波濤大ひに巻てふね忽に覆らんとす。船長某常に稲荷を尊信す。将に丹誠を尽して即得浅処を求む。以下の水主柁人等皆稲荷の神号を唱し、此危急を免れん事を祈るに奇瑞帆上に顕れ、暴風自然に静り、難なく武府に着船する事を得たり。而て積所の石陸へ運送せんとするに、磐岩のことくにして、揚る事を得す。皆々驚怖す。其夜舟長夢に石中稲穂一束あり。是をもって稲荷の社地に奉納すへしと。覚へて水主等に語りて怪ミ尋に稲穂一束を石中より提出せり。其後石を運送するに、功甚速に成る。幸当社着船の地に近きを以て稲穂を当社へ奉納シ、散穂稲荷大明神と号し、古来の祭神と井せて二座とす。運送海船の霊異、稲荷の神徳たる事を証せんか為に当、御城中の御門両傍に大小の狐祠を勧請して今猶現然たり。

紅葉山稲荷大明神由来
往昔より金 城紅葉山に鎮座、其後近世元禄年中紅葉山 御仏殿御造営の時、他所へ移し奉るとするに、先年散穂の所縁あるを以て 台命下り、当社へ遷座し奉る。先の祭神二座に合して、三座とす。是より黒船三社稲荷大明神と尊号し、霊応益ゝ盛んにして祈望の輩如意円満し、信敬の徒、福寿増長せすと云事なし。貴むへく仰くへし。仍縁起前文のことし。
追加
里人伝云、浅草川入間川ノ別名に黒船着岸す。故にその所を黒船町と名付、黒舟の頭の有し所をミヨシ(今三好ノ字ヲ用)町と号スと。此説大に非也。古来より浅草川に黒船留舶せし事を不聞。実録及び野史にも兄へす。益上に所謂大田氏肥州より数多の大石を積下し渡海せし船此川辺に碇せしを、黒船着岸と伝ヱ誤るのミ。又ミヨシ町は黒舟丁の上の方に隣を以て好事のもの作意して名付たるへし。黒舟ハ当社久しき神号にして神号を以て社前の町の名とする事必せり。黒舟着岸の謂にハ非ず。

時享保十八年癸丑春二月吉辰
昔日不可無鎮座縁起及往々霊験記録等也。惜哉中古兵乱尽亡失而不伝矣。近頃釈妙円尼勤尋其興起善明其来歴自編為一巻暴示干後世因得衆人知詳来由久遠而耀漸神霊和光焉無此著述何以徴乎妙円之有功実当社之幸甚也。然享保壬子年隣巷有火矣。社地炎上危奉遷神輿其余什宝且妙円之自記皆悉灰燼也。鳴呼命哉命哉。奈何之乎矣。爰民人誥田住晶予識妙円之記粗筆之如前文恨有遺漏不能全写伏庶将使向後信敬之貴賎仰神霊之不庸以被許愚之感応者也。
享保十八歳癸丑夏四月
武州豊嶋郡江戸浅草黒船町
泉住寺謹書

氏子町 黒船町三好町
別当金龍山泉住寺、天台宗浅草寺
以上乙酉書上

熊野三社浅草黒船町に在しか、近き頃諏訪町のうしろ堀田家の屋敷近所へ移る。早玉弁天稲荷相殿なり。神主曽根外記(再訂惣鹿子)
早玉弁天・黒船稲荷・熊野権現三座同社諏訪町うら黒船町うら黒船町代地に在り(江戸図説)
本社九尺四方土蔵造。向弁天稲荷不動十一面観音。この観音ハ弘法大師の作にして、故ありて紅葉山より御預りといふ。此社を三社といふハ黒船稲荷・三好町散穂いなり、御城の比丘尼方より納めし所のいなりを合せ祭る。
別当泉住寺黒船町代地にあり。小名を吹上といふ浅草寺の末寺、金龍山と号す。
延享二年九月、浅草寺地中門末改書上之内
浅草黒船町泉住寺
一御除地境内百十六坪五合、本社弐間二弐間半。幣殿弐間九尺。拝殿二間四方。右散物銭五貫文程
一祈願檀方、五十軒
右檀得、金弐拾両程
収納金、金弐拾両程銭五貫文程
右之通相違無之候、泉住寺印(以上浅草寺志)(御府内寺社備考より)


黒船稲荷神社の周辺図