亮朝院|新宿区西早稲田にある日蓮宗寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

如意山亮朝院|徳川将軍家祈祷所、高田の七面堂

亮朝院の概要

日蓮宗寺院の亮朝院は、如意山栄亮寺と号します。日暉上人が牛込和田富山荒井山五明村(戸山村)に七面大明神を祀ったのを起源とし、四代将軍徳川家綱から将軍家の祈祷所として、自筆の御筆を賜っています。明暦3年、五明村に寺地を拝領し創建しました。寛文11年寺地が御用地となり当地へ移転、その後も将軍家祈祷所として、将軍家からの崇敬を集めました。境内七面大明神堂は、江戸期には七面社として有名で、現在も「高田の七面堂」と称されています。

亮朝院
亮朝院の概要
山号 如意山
院号 亮朝院
寺号 栄亮寺
本尊 三宝祖師
住所 新宿区西早稲田3-16-24
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



亮朝院の縁起

亮朝院は、日暉上人が牛込和田富山荒井山五明村(戸山村)に七面大明神を祀ったのを起源とし、四代将軍徳川家綱から将軍家の祈祷所として、自筆の御筆を賜っています。明暦3年、五明村に寺地を拝領し創建しました。寛文11年寺地が御用地となり当地へ移転、その後も将軍家祈祷所として、将軍家からの崇敬を集めました。境内七面大明神堂は、江戸期には七面社として有名で、現在も「高田の七面堂」と称されています。

新編武蔵風土記稿による亮朝院の縁起

法華宗、甲斐国身延久遠寺末、如意山栄亮寺と号す。
縁起云、開山僧日暉は牛込和田戸山荒井五明村に住し、七面を祀る。其頃厳有院殿の老女近江、若君の御武運を請奉る。閏2年4月日光御参の時、懐中の御守として一部一巻の法華経、及題目を彫りし短刀、雷除の小片穴を献す。環御せし経文の表紙に南無七面大明神の七字を御染筆あり、明暦元年永く将軍の御祈祷所を定め給う印として、御諱の字を記さるる所の御筆を賜はる。同3年命有て七面の神体を御覧に入しかは、頓て五明村にて方三十間の地を賜はりて七面の社地とせらる、同年遂に起立して一寺となり。身延山に属し、山号寺号今の如く定む。院号は暉か旧号を用ゆと云。寛文7年3月22日日暉寂て日純継く。同11年境内御用地となり、尾張殿に賜はるに及て、代地を今の所に賜ふと。本尊三宝を安す。
鐘楼、元禄15年造立。同年6月19日の銘文を彫る。
七面社。神体は身延七面の像と同木同作なり。初戸山に在し頃、明暦3年此像を御覧に入しに、御信仰の余り再ひ社地を旧地五明に賜はり、堂宇御建立を命ぜられ、工就て大城より神体をうつされ、御紋の戸帳水引挑灯等を賜はる。当所に遷りし後も元禄14年3月大夫人桂昌院殿参詣し給ひ、其後も二度まて詣て給ひしと云。
釈迦堂。釈迦は銅像なり。享保8年造立。堂は同10年に至て成、有徳院殿の御時陀羅尼萬巻の祈祷を命ぜられ、御紋の戸帳、水引挑灯を寄附せらる。
祖師堂。日蓮像5尺8寸、朝日祖師と号す。又日朝像を安す。(新編武蔵風土記稿より)


亮朝院所蔵の文化財

  • 亮朝院文書(新宿区指定有形文化財)
  • 梵鐘(新宿区指定文化財)
  • 金剛力士像一対(新宿区指定文化財)

亮朝院文書

如意山亮朝院に伝来する古文書類で、亮朝院の開基である能勢の局の書状など年代不明のものを除くと、寛永2年(1625)の日閑筆「疫神遠離秘法」を最古とし、昭和15年の「福寿海無量」まで約400件に及ぶ区内最大規模の寺院文書である。
内容は、江戸後期から明治時代のものが多く、亮朝院の由緒や経営、建物や境内の普請工事などに関するものが中心である。
亮朝院は、江戸前期に徳川家の庇護のもと、その祈祷所として成立したが、明治以後は一般檀徒の寺となった。文書からは、このような寺の歴史的変遷を知ることができる。戸塚地区に残る数少ない古文書として貴重である。(新宿区教育委員会掲示より)

梵鐘

江戸鋳物師の鋳造技術が極めて高かった元禄15年(1702)に造られた銅造の梵鐘。総高141.5cm。銘文により、浅草権兵衛が発起人となり、市谷田町講・関口講などの講中のほか、506名の武士や庶民が鋳造に寄与していることがわかる。(新宿区教育委員会掲示より)


亮朝院の周辺図