宝泉寺|新宿区西早稲田にある天台宗寺院

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禅英山宝泉寺|藤原秀郷が開基、牛込氏が再興

宝泉寺の概要

天台宗寺院の宝泉寺は、禅英山了心院と号します。宝泉寺は、藤原秀郷が開基となり、秀郷寺と号して創建したと伝えられ、その後文亀元年(1501)扇谷上杉朝良が復興、天文年間(1532-1555)に比叡山寶泉坊秀寶が宝泉寺と改め、天文19年(1550)牛込氏が再興たといいます。

宝泉寺
宝泉寺の概要
山号 禅英山
院号 了心院
寺号 宝泉寺
本尊 薬師如来像
住所 新宿区西早稲田1-1-2
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



宝泉寺の縁起

宝泉寺は、藤原秀郷が開基となり、秀郷寺と号して創建したと伝えられ、その後文亀元年(1501)扇谷上杉朝良が復興、天文年間(1532-1555)に比叡山寶泉坊秀寶が宝泉寺と改め、天文19年(1550)牛込氏が再興たといいます。明治維新まで水稲荷神社の別当寺であったといいます。

新編武蔵風土記稿による宝泉寺の縁起

(下戸塚村)寶泉寺
天台宗東叡山末、禅英山了心院と号す。此院号は延宝年中日光御門主より賜ふ所なり。本尊薬師長二尺春日の作と云。天慶四年藤原秀郷の開基にて始は秀郷寺と号せしを、遥の星霜を経天文の頃比叡山寶泉坊秀寶と云僧住持となしより改て寶泉寺と号すなと傳ふ。僧名と寺号偶同かりしも奇なりと云へし。按に境内稲荷社は上杉氏の建立なりし由若さあらんには恐くは其頃彼社の別当寺に造立して、則秀寶は開山たりしを古刹なるを證せんとて、秀郷の開基なとと付会し、秀寶は却てえ開山の名を失ひしにや。とにかく定かなる拠はなし。境内毘沙門の事も爰に准して知べし。
寺宝。兜一頭。楠正成著領の由。大久保某より納む。天正十四年六月十八日大久保弥三郎が記せる添状あり。其略に此星甲者、越前国豊原十人貞生作にて、建武二年楠正成其子庄五郎正行に譲り、楠滅亡の後足利家に傳へ、其後転傳して大久保新八郎忠俊に傳はり、忠俊次男忠政に傳ふとあり、「大久保家譜」を按に、忠政少名弥三郎と称し、叔父弥三郎忠久か養子と成り、後年大久保三郎右衛門と称せし人なり。当寺へ寄附せし年月等は詳にせず其図上にのす。
毘沙門堂。
高さ二丈余の山上にあり。毘沙門は慈覚大師の作長二尺五寸、此像元は上野国佐野大慈寺にありしを、天慶四年藤原秀郷志願によりてここに移すと云。当寺天正六年の記録に、此本尊者俵藤太秀郷持佛の由と見ゆ。又此所は往古中務卿宗良親王陣取ありし所なりなと云傳ふ。
稲荷社。(註:現水稲荷神社
水稲荷と号す。当寺舊記の寫なりと云ものあり。其内に文亀元年再興大檀那上杉治部少輔入道朝良云々とあり。又「上杉系図」異本に治部少輔朝良、文亀元辛酉年、依霊夢江北高田郷戸塚村稲荷大明神勧請、今寶泉寺境内戸塚稲荷是也とあり。寺傳と違へり。又当社の棟札なりとて是も其寫を蔵せり。其文に天文十九年庚戊二月二十九日、北条氏綱之時代牛込主膳時国再興、大僧都別当寶泉坊秀寶云々とあり氏綱は天文十年の卒なり。年代も違ひ且「牛込系図」時国なし。後天和二年佐藤勘右衛門信次再ひ造営すと云。真次子孫美濃守信頸也。神体は朝良夢中感得の像を彫刻する所と云。長一尺五寸本地十一面観音長二尺五寸慈覚大師の作、及陀枳尼天の像を合殿とす。
浅間社。高さ三丈余の仮山上にあり。安永八年の勧請にて山は奇石を畳みて築立巧を極めたり。毎歳六月十五日より十八日まで登山をゆるし参詣の人にきはへり。里人高田富士と云へり。
念仏堂。阿弥陀を置聖徳太子作、立像長二尺五寸。
鐘楼。正徳元年鋳造の鐘をかく。
千歳松。古木は枯て若木を植つけり。大猶院殿御放鷹の時古木なるを上覧ありて名つけ給ひしと云。
旅立桜。是も古木はかれて植つきしものなり。宗良親王旗を立られし所なれば此名ありなと云。
蜥蝪ヶ池。是も寛永の頃御放鷹の時名つけ給ひしと云。
古榎樹。うろに水あり。いかなる旱魃にもかるることなし。眼を患る者この水にてあらへは必ず験ありと云。(新編武蔵風土記稿より)


宝泉寺所蔵の文化財

  • 梵鐘(新宿区登録有形文化財)

梵鐘

宝泉寺第六世玄海の発願で、正徳元年(1711)7月に、江戸鋳物師西嶋伊賀守藤原正重により鋳造された銅造の梵鐘。
総高136㎝、口径79㎝。龍頭は両頭式、乳(突起)は108個を配し、撞座は二か所設けられている。江戸鋳物師の技術が頂点に達した正徳年間に鋳造されたもので、仏像が表現されるなど、入念かつ斬新な仕上がりとなっている。
銘文からは宝泉寺の歴史や梵鐘鋳造の経緯がわかり、史料的価値が高い。それによると宝泉寺は、承平年中(931-38)平将門の乱を平定した藤原秀郷が草創。南北朝の動乱で荒廃したものを文亀元年(1501)扇谷上杉朝良が復興するが再度戦国の動乱で荒廃、天文十九年(1550)牛込氏が再興したが梵鐘は鋳造されなかった。そのため玄海は、住職就任当初から梵鐘再興に努めたが、なかなか実現せず、住職を辞した宝永七年(1710)私財を投じて梵鐘を鋳造させたという。
江戸時代の梵鐘は、太平洋戦争中の供出により現存数が少なく、技術的にも史料的にも価値の高い梵鐘として貴重である。(新宿区教育委員会掲示より)


宝泉寺の周辺図