西応寺|新宿区須賀町にある真宗大谷派寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

松雲山西応寺|徳川家康命名の山号

西応寺の概要

真宗大谷派寺院の西応寺は、松雲山と号します。西応寺は、周桂和尚が麹町貝塚夫婦坂に慶長12年(1607)創建、江戸城外堀建造に伴い寛永12年(1635)当地へ移転したといいます。山号は、徳川家康が当寺に来た際、庭前の松に暮雲がたなびいているさまを見て松雪山とするよう命名されたといいます。

西応寺
西応寺の概要
山号 松雲山
院号 -
寺号 西応寺
住所 新宿区須賀町11-4
宗派 真宗大谷派
葬儀・墓地 -
備考 -



西応寺の縁起

西応寺は、周桂和尚が麹町貝塚夫婦坂に慶長12年(1607)創建、江戸城外堀建造に伴い寛永12年(1635)当地へ移転したといいます。山号は、徳川家康が当寺に来た際、庭前の松に暮雲がたなびいているさまを見て松雪山とするよう命名されたといいます。

「四谷區史」による西応寺の縁起

松雲山西應寺は東本願寺末の眞宗で、四谷南寺町にある。境内古跡拝領地千百拾三坪、慶長十二年丁未麹町貝塚夫婦坂といふ所に起立し、寛永十一年甲戌外廓出来の時用地に公収せられて此地に轉移した。同十二年乙亥正月廿一日のことである。
「開闢起立之儀者、俗称不詳、開基周桂坊と申者、駿州府中之産にて、乍恐上様御由緒も御座候者之由、太田何某養育せられ、人と成に及て、同國西教寺弟子と成、何卒一宇建立仕度存、内藤帶刀殿家来河棲五郎左衛門と申者を便り、關東え罷下、江府鷹匠町三浦助蔵と申御家人屋敷に暫逗留仕、所々権化等致、定れる庵地も無御座候間、麹町邊之知人に借地仕、始て草菴を結、日々江府を権化仕、且手跡人に勝れ候故、手跡之弟子杯多御座候由、其後年月不知、権現様御成之節、庵室え被遊御立寄候處、庭前之松に暮雲之靉靆しを被爲御覧、嚴命に依て松雲山之號を賜り候由、此處兩三年居住仕候處、御由緒之譯申上、慶長十二丁未年前書菴地拝領仕候、右委細之譯、年代相隔候事故、聢と相分不申候得共、周桂實子二代目關龍書置候者に相見候間此段申上候、其後慶長十五庚戌年三月木佛寺號御免被成下候」とは書上に見える所で、本尊春日安阿彌作と傳ふる阿彌陀如来に就ても、一條の縁起があるが省略する。猶書上に周桂法師は慶長元子年十二月十日卒したとあるが、これは寛永元年の誤であらう。(「四谷區史」より)

「四谷南寺町界隈」による西応寺の縁起

真宗大谷派で松雲山と号す。
書上によれば、境内古跡拝領地1113坪とある。東都伽藍記(安永項)も同じ坪数であるが、東京府史料には1173坪とあるのは1と7の見誤りであろう。今は墓域500坪である。
始めは、同寺の備考寺社書上げによれば、慶長12年丁未麹町貝塚夫婦坂という所に起立し(このところは明治に行政裁判所のあったところで、紀尾井町になる)、寛永11年甲戌、外郭が出来る時用地に公収せられて、現地に移転したのは同12年乙亥正月21日であると。
さらに、開闢起立之儀は、俗称不詳の開基周桂和尚と申す者、駿州府中の産にて、乍恐上様御由緒も御座候者の由、太田何某に養育せられ、人と成に及んで、同国西教寺弟子と成、何卒一宇建立支度存じ、内藤帯刀殿家来河棲五郎左衛門と申者を便り、関東に罷り下り、江府鷹匠町(市ヶ谷鷹匠町か)三浦助蔵と申す御家人屋敷に暫く逗留仕り、所々を勧化等致し、定まれる庵地も御座無く候間、麹町辺の知人に借地仕り、始めて草庵を結び、日々江府を勧化仕り、且つ手跡人に勝れ候故、手跡の弟子など多く御座候処、其後年月知れず候え共、権現様御成の節、庵室え御立寄遊され候処、御由緒の訳申上げ、慶長12丁未年、前書庵地拝領仕り候。右委細の訳、年代相隔て候事故、しかと相分り申さず候得共、周桂実子二代目関竜、書置候ものに相見え候間、此段申上げ候。其後慶長15庚戌年3月、木仏寺号御免成下され候。と以上が書上げにあって、本尊は伝春日作の阿弥陀如来があった。開基周桂和尚は寛永元年甲子12月10日寂している。
寺宝としては家康所用の団扇および脇差、その他数点があるが、昭和20年の戦災によって大分痛めつけられたという。(四谷南寺町界隈より)


西応寺所蔵の文化財

  • 榊原健吉の墓(新宿区指定文化財)

榊原健吉の墓

幕末から明治にかけて活躍した、最後の剣客榊原健吉は、天保元年(1830)麻布広尾に生まれた。
十二歳のとき、麻布狸穴の直心影流男谷精一郎門下となり、嘉永2年(1849)には免許をうける。
安政3年(1856)幕府講武所の剣術教授方に登用され、文久2年(1862)には同師範に昇進、元治元年(1864)には下谷車坂の屋敷で道場を開いた。
慶応2年(1866)には幕府遊撃隊頭取となり、上野戦争で活躍するが、明治元年(1868)8月徳川家達に従い静岡に移住した。
その後、明治政府より再三招かれるが断り、明治6年(1873)撃剣会を発足させ、維新後衰退した剣術の再興と普及に努めた。
明治27年(1894)9月11日死去した。(新宿区教育委員会掲示より)


西応寺の周辺図