成覚寺|新宿区新宿にある浄土宗寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

十劫山成覚寺|投げ込み寺、子供合埋碑、旭地蔵、恋川春町墓

成覚寺の概要

浄土宗寺院の成覚寺は、十劫山無量寿院と号します。後に高月山長善寺をも創建した浄蓮社岌誉上人瑞翁直心和尚が、文禄3年(1594)当地に創建しました。内藤新宿の遊女(飯盛女、子供ともいう)が死ぬと、当寺に葬られたことから、三ノ輪の浄閑寺と同様「投げ込み寺」とも呼ばれ、その数二千体を越えたといわれます。境内にはその遊女達(子供)を弔った子供合埋碑や、玉川上水で入水(自殺)した人たちを弔う旭地蔵、浮世絵師・狂歌師・戯作者の恋川春町墓などがあります。

成覚寺
成覚寺の概要
山号 十劫山
院号 無量寿院
寺号 成覚寺
本尊 阿弥陀如来座像
住所 新宿区新宿2-15-18
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



成覚寺の縁起

成覚寺は、後に高月山長善寺をも創建した浄蓮社岌譽上人瑞直信和尚が、文禄3年(1594)当地に創建したといいます。内藤新宿の遊女(飯盛女、子供ともいう)が死ぬと、当寺に葬られたことから、三ノ輪の浄閑寺と同様「投げ込み寺」とも呼ばれ、その数二千体を越えたといわれます。境内にはその遊女達(子供)を弔った子供合埋碑や、玉川上水で入水(自殺)した人たちを弔う旭地蔵、浮世絵師・狂歌師・戯作者の恋川春町墓などがあります。

「四谷區史」による成覚寺の概要

十却山無量壽院成覺寺は内藤新宿にあり、また増上寺末の浄土宗である。境内拝領地八百四拾壹坪であつたが、拝領した年代は明かでない。文禄三年の起立で、開山浄蓮社岌譽瑞直信和尚は在住三十年、その後元和九年千駄谷に長善寺を創立して、正保五年即ち慶安元年閏正月廿日に入寂した。
この寺は新吉原にある三輪の浄閑寺と同じく、新宿青樓遊女の無縁のものを葬つたので知られて居り、現に白糸塚などを存する。嘉永五年五月俳優二代目坂東秀佳が鈴木主水白糸の狂言に當りをしめて、白糸追善の爲に建てたものである。(「四谷區史」より)

御府内寺社備考による成覚寺の概要

増上寺末 四谷内藤宿 十劫山無量寿院成覚寺、境内拝領地841坪
当寺起立之儀者文禄3年開山浄蓮社岌誉上人瑞翁直心和尚在住三十年之後元和9年千駄ヶ谷長善寺を起立候。正保5年閏正月20日寂。
本堂間口6間奥行6間。本尊阿弥陀如来座像長2尺春日作。前立阿弥陀如来立像長3尺安阿弥作。善導大師。円光大師。
鐘楼堂9尺四方。大鐘長3尺5寸、差渡1尺8寸5分。
半鐘長2尺指渡1尺2寸。
十劫山額字、増上寺大僧正智堂書。(御府内寺社備考より)


成覚寺所蔵の文化財

  • 子供合埋碑(新宿区指定文化財)
  • 恋川春町の墓(新宿区指定文化財)
  • 旭地蔵(新宿区指定文化財)
  • 塚本明毅の墓(新宿区登録史跡)

子供合埋碑

江戸時代の内藤新宿にいた飯盛女(子供と呼ばれていた)達を弔うため、万延元年(1860)11月に旅籠屋中で造立したもので、惣墓と呼ばれた共葬墓地の一角に建てられた墓じるしである。
飯盛女の抱えは実質上の人身売買であり、抱えられる時の契約は年季奉公で年季中に死ぬと哀れにも投込むようにして惣墓に葬られたという。
もともと墓地の最奥にあったが昭和31年の土地区画整理に際し現在地に移設された。
宿場町として栄えた新宿を蔭で支えた女性達の存在と内藤新宿の歴史の一画を物語る貴重な歴史資料である。(新宿区教育委員会掲示より)

恋川春町の墓

恋川春町は駿河小島藩の家臣で、小石川春(日)町に住んでいたので、町名からペンネームを作っています。「金々先生栄花夢」や「鸚鵡返文武二道」など、当時の世相や人情を風刺した黄表紙を著しましたが、老中松平定信の寛政の改革を批判したものとして、幕府の取締りを受けそうになったため、召還を拒んで自殺したとも病死したとも伝えられています。

恋川春町(1744-1789)は、江戸時代中期に活躍した浮世絵師・狂歌師・戯作者で本名を倉橋格俗称を寿平という。
江戸小石川春日町に住んでいたところから恋川春町を号した。
多くの著に挿絵などを描いていたが、安永4年(1775)自画自作の「金々先生栄花夢」を出版し、世相・人情の風刺を試み大歓迎を受け、多くの追随作を生み黄表紙という新しいジャンルを開拓し、文学史上に大きな影響を及ぼした。
墓石には正面に一族の者二人と並んで戒名、俗名、没年が記され更に左側面に春町の辞世の句が
生涯苦楽四十六年
即今脱却浩然帰天
我も万た身はなきものとおもひしが
今ハのきハハさ比しかり鳧
と記されている。(新宿区教育委員会掲示より)

旭地蔵

旭地蔵は、寛政12年(1800)甲州街道から新宿天龍寺へ向う途中にあった玉川上水を渡る橋の北岸に建てられたもので、明治12年、道路拡張のため、当寺へ移されました。

三界万霊と刻まれた台座に露座し錫杖と宝珠を持つ石地蔵で、蓮座と反花の間に十八人の戒名が記されている。これらの人々は寛政12年(1800)から文化10年(1814)の間に宿場内で不慮の死を遂げた人達で、そのうちの七組の男女はなさぬ仲を悲しんで心中した遊女と客達であると思われる。これらの人々を供養するため寛政12年7月に宿場中が合力し、今の新宿御苑北側を流れていた玉川上水の北岸に建立した。
別名夜泣地蔵とも呼ばれていたと伝えられる。
明治12年(1879)7月道路拡張に伴いここに移設された。
宿場町新宿が生み出した悲しい男女の結末と新宿発展の一画を物語る貴重な歴史資料である。(新宿区教育委員会掲示より)


成覚寺の周辺図