大森貝塚遺跡庭園|現谷山公園
大森貝塚遺跡庭園の概要
大森貝塚遺跡庭園は、品川区大井にある名所旧跡です。大森貝塚遺跡庭園は、モース博士が明治初年に発見した貝塚の地を公園として整備したもので、縄文時代について学べる施設が整えられています。モース博士が発見した大森貝塚は、JR線路に沿って100m弱ほどだったと自叙伝にありますが、明治時代には大井町のJR東日本東京総合車両センター地(旧地名権現台)も権現堂貝塚跡として知られていたことから、京浜東北線沿線に広く貝塚が分布していたものと考えられます。
名称 | 大森貝塚遺跡庭園 |
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みどころ | 史跡 |
区分 | 大名屋敷跡地 |
住所 | 品川区大井3-6-15谷山公園 |
備考 | - |
大森貝塚遺跡庭園
大森貝塚遺跡庭園は、モース博士が明治初年に発見した貝塚の地を公園として整備したもので、縄文時代について学べる施設が整えられています。モース博士が発見した大森貝塚は、JR線路に沿って100m弱ほどだったと自叙伝にありますが、明治時代には大井町のJR東日本東京総合車両センター地(旧地名権現台)も権現堂貝塚跡として知られていたことから、京浜東北線沿線に広く貝塚が分布していたものと考えられます。
「大井町史」による大森貝塚について
大森貝塚
大森貝塚は字鹿島谷にあり所謂大森介墟は是である。明治初年米國人モールス氏が来朝して初めて横濱より東京に来る途中、汽車の窓より望みて發見したものである。其の頃の貝塚の状態は同氏の手記に叙されて居るのえ、之を左に掲ぐることゝする。(一九一七年刊行の日本日記)
大森介墟は東京を距る凡六マイル、東京横濱間鐡道線の西にありて、汽車に乗る者大森停車場を廢し、僅に北して能く窓中より之を見るを得べし、即ち鐡道線其一部に互りて線外の野に盡く、土器の破片「貝塚を撤布す、介墟の鐡道線路に沿へる長さは大約八十九メートルにして、厚さ最なる所にて四メートルあり、又該線より西の方九十九メートルの處にも一介墟あり、但し未だ彼之互に相通ずるものなるやを審にせず、又此より南方の野にも嘗て一介墟ありしと傳ふれども、今耕種の地と爲りて殆んど其形跡を失へり、勝て此等の介墟は東京湾の水涯を距る事半マイルに在り」。
と以て當時の状況を窺ひ知られる。發見品は土器、土偶。土盤各種石器類骨角器貝類等で、人骨は頭骨上肢下肢七人分の斷片である。又鹿猪の骨片魚骨もある。土盤は二寸より三寸位の長方形楕円形等扁平な土製で、紋様がある。土偶は女の形で、女神の像の如きものである。石斧は分銅形短冊形もあり、石鏃石皿等もある。骨角器としては銛や針笄等などあり、貝殻としては蛤には色料の這入たものもある。赤貝、さるぼう、あさり、しほふき、ばい、にし、さざへ等である。此の名高き介墟も、今は僅に其の痕跡を存するのみなるも其の湮滅を惜みて此の貝塚に標石を建ててある。(境内掲示より)
大森貝塚遺跡庭園の周辺図