東福寺|渋谷区渋谷にある天台宗寺院

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渋谷山東福寺|源義家が金王八幡宮と共に当寺を創建

東福寺の概要

天台宗寺院の東福寺は、渋谷山と号します。源義家が金王八幡宮と共に当寺を創建したと伝えられます。僧円鎮(養和元年1181年)が開山となり、親王院と称していましたが、建仁2年(1202)当地の地頭渋谷高重が帰依したことから、渋谷山常照院円證寺と改めました。、東京三十三観音霊場8番札所です。

東福寺
東福寺の概要
山号 渋谷山
院号 -
寺号 東福寺
住所 渋谷区渋谷3-5-8
本尊 阿弥陀如来像
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 東京三十三観音霊場8番札所



東福寺の縁起

東福寺は、源義家が金王八幡宮と共に当寺を創建したと伝えられます。僧円鎮(養和元年1181年)が開山となり、親王院と称していましたが、建仁2年(1202)当地の地頭渋谷高重が帰依したことから、渋谷山常照院円證寺と改めました。

金王八幡宮)別当東福寺
天台宗江戸山王城琳寺末、開山僧円鎮、養和元年閏2月7日寂す。当時は源義家堂社造立のとき、共に建立ありて則親王院と名付しか、建久2年鶴岡八幡社再興の時、当社も修理を加へられ鶴谷山と名付く。其後建仁2年円證と云僧住せしか、渋谷高重此僧を帰依し、伽藍を造立し、渋谷山円證寺と号し、院を常照と改む。本尊弥陀は慈覚大師の作。長3尺2寸なり。此像は開山円鎮旅僧より伝授す。鎮其報として地蔵像を贈る。彼僧欣然として携去て行方を知らず、鎮其忽行方を失ふを怪て是を尋るに、金王丸影堂中に彼贈りし地蔵の像あり。是金王丸の仮に旅僧に現して授けしに疑なしとて、益信仰浅からす。終に彼弥陀を本尊と崇め八幡の本地佛とす。
寺寶
正観音像一体。長3尺、立像なり。金王丸守護佛なりと云。矢拾観音と号す。
十一面観音像一体。長5寸立像なり。義家より基家に与へしものと云傳ふ。矢拾観音と号す。
子安薬師像一体。長1寸5分。龍宮より出現せしものと云。常盤午前より頼朝に傳へ、又土佐昌俊に授けられ、昌俊鞍馬山に納めして、渋谷高重これを得て当寺に納めしと云。
鉤匙一本。六孫王経基の遺物と云傳ふ。鐵にて作り、瓢箪の象眼あり。
金王丸像一体。自刻して母に送りしと云もの是なり。少年の姿にして鎧を着せし像なり。
太刀一振。秩父十郎基家が佩刀なり。獅子丸を号す。基家戦陣に獅子の勢あり。因て佩刀をかく義家名付し由云傳ふ。無銘、長2尺7寸余。
長刀一振。金王丸の旧物なり。毒蛇の長刀と号す。長2尺8寸。中心2尺4寸5分程。柄長4尺余あり。金王丸猛勇にて此鋒先に向ふ人皆死するをもて、毒蛇の名を得たりと云ふ。
月輪旗一流。長5尺余、幅1尺5寸許。月輪は円経7寸程にて黒色なり。此旗は縁起に載る神体を模せしものと云ふ。
門前町屋。間口30間半、歩数274坪5合。延享3年より町奉行支配となる。(新編武蔵風土記稿より)


東福寺所蔵の文化財

  • 東福寺の梵鐘(渋谷区指定有形文化財)
  • 木造薬師如来坐像(渋谷区指定有形文化財)
  • 銅造菩薩立像(渋谷区指定有形文化財)
  • 木造不動明王立像
  • 宇田川地蔵

東福寺の梵鐘

宝永元年(1704)の銘があるこの梵鐘の周りには、金王八幡宮の縁起など渋谷の歴史が刻まれています。その一部に
後冷泉帝のとき、 渋谷の旧号谷盛の庄は親王院の地にして七郷に分る。渋谷郷はその一なり
とあることから、渋谷の地を谷盛の庄とも呼んでいたことがわかるのです。なお、享保二十年(一七三五)に版行された『江戸砂子』には、渋谷・代々木・赤坂・飯倉・麻布・一木・今井を谷盛七郷と呼ぶ、と書かれてあります。また、他の史料によると、上・中・下の渋谷三ヶ村と、上・中・下の豊沢村に隠田を加えた七ヶ村を渋谷郷と称したといいます。(渋谷区教育委員会掲示より)

木造薬師如来坐像

本像は不動明王の通例にしたがい、上半身に条帛をまとい、裙・腰帯を着け、右手に利剣、左手に羂索を持ちます。興味深いのは、本像が玉眼を嵌めているように、中世に入る制作とみられるものの、頭部と体部を通して一木から彫成するという古様な構造としていることです。そのため、肉厚で重厚なつくりとなっていますが、両手の肘を強く張るとともに、腰を右に振り、右足を側方に開いて岩座の上に立つことにより、動きを表現しています。
形状で注目されるのは、頭頂部に載せた蓮台の上に八弧形の線刻を施している点で、これは髪房を束ねて表現する莎髻を簡略化した意匠と思われます。また巻髪とし、左目をすがめ、牙を上下に出し口唇をゆがめているのは天台系の不動明王の図像に基づくものです。その一方で、頭頂部に蓮台を載せるのは、真言系の形像を取り入れたもので、天台・真言双方の要素を交えたこの種の例でも特異な例にあたり興味深い作です。
本像は、その作風から十三世紀半ば頃にさかのぼると推定され、区内に所在する不動明王としては、最古例に属する優品であります。本体の保存状態が良いのも幸いであり、岩座や迦楼羅焔光は後補であるものの、当初の姿をよく伝えています。(渋谷区教育委員会掲示より)

宇田川地蔵

本像は、宝冠とその手の形から、いわゆる善光寺式阿弥陀如来像の脇侍像にあたると考えられます。銅製でで、鍍金は認められません。頭部から足先までが一鋳製にみえますが、現状は補修の痕跡をとどめています。頭部には、火を被った痕が確認でき、その痕跡を残さない体部とは別に鋳造されたとみられます。宝冠章面の標識が確認できないので、左右脇侍のいずれにあたるかは判断できません。信州善光寺の本尊阿弥陀三尊像に基づくという銅造阿弥陀如来の一光三尊形式の流行は、鎌倉時代に入って高まります。頭部は宝冠のかたちや端正な顔立ちから、鎌倉時代後期の表現が観取でき、類例から十三世紀後半の作とみられます。
一方、撫で肩で細身の体部も、まとまりのある造形を示しており、南北朝時代を降らないとみられます。鋳継ぎの際に頭部をやや上げ過ぎるかたちになったものの、全体の姿形は自然でつながりもよいものです。中世にさかのぼる善光寺式阿弥陀如来像の脇侍像が、区内に伝存する例はほかにありません。加えて本像は、通称「矢拾観音」として「江戸名所図会」等にも紹介されております。その霊像が木像であったという「寺社書上」(文政十一年)の伝えもあり、本像が「矢拾観音」であると確認できませんが、その可能性も否定できず、今日まで信仰を集めています。(渋谷区教育委員会掲示より)

木造不動明王立像

本像は、宝冠とその手の形から、いわゆる善光寺式阿弥陀如来像の脇侍像にあたると考えられます。銅製でで、鍍金は認められません。頭部から足先までが一鋳製にみえますが、現状は補修の痕跡をとどめています。頭部には、火を被った痕が確認でき、その痕跡を残さない体部とは別に鋳造されたとみられます。宝冠章面の標識が確認できないので、左右脇侍のいずれにあたるかは判断できません。信州善光寺の本尊阿弥陀三尊像に基づくという銅造阿弥陀如来の一光三尊形式の流行は、鎌倉時代に入って高まります。頭部は宝冠のかたちや端正な顔立ちから、鎌倉時代後期の表現が観取でき、類例から十三世紀後半の作とみられます。
一方、撫で肩で細身の体部も、まとまりのある造形を示しており、南北朝時代を降らないとみられます。鋳継ぎの際に頭部をやや上げ過ぎるかたちになったものの、全体の姿形は自然でつながりもよいものです。中世にさかのぼる善光寺式阿弥陀如来像の脇侍像が、区内に伝存する例はほかにありません。加えて本像は、通称「矢拾観音」として「江戸名所図会」等にも紹介されております。その霊像が木像であったという「寺社書上」(文政十一年)の伝えもあり、本像が「矢拾観音」であると確認できませんが、その可能性も否定できず、今日まで信仰を集めています。(渋谷区教育委員会掲示より)

宇田川地蔵

宇田川地蔵は、もともと宇田川橋のたもとにあったといわれています。それが、街の繁栄に伴って明治四十年頃に現在の西武百貨店B館裏手の高台に移されました。その地も開発が進み、昭和三十八年一月には、宇田川町10-2に移転することとなります。
お地蔵様は、ご存知のように大衆にとって最も身近な菩薩で、現世と来世との間にたって、人が死に臨んで、その魂を救ってくれるものと信じられてきました。
このような教えですから、その信仰が大衆に伝えられた時代は古く、また、広い階層にわたっています。
宇田川地蔵は、平成二十五年七月二十二日に宇田川町の地から東福寺に遷座することとなり、新しいお堂が完成しました。
正面の地蔵尊像は、昭和三十七年十一月の造立です。右横にある像は、戦災の影響で傷んではおりますが、宇田川橋のたもとにあったもので、元禄元年(一六八八)に造立されたものです。
なお、堂外右手には、戦災で破損しているものや台座のみのものを含めて三基の庚申塔が同じく移転をしてきました。(渋谷区教育委員会掲示より)

東福寺の周辺図