長安寺|渋谷区神宮前にある浄土宗寺院

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大寶山長安寺|満米地蔵

長安寺の概要

浄土宗寺院の長安寺は、大寶山龍泉院と号します。長安寺は、品誉長悦(慶長4年寂)が開山となり赤坂に創建、その後年代は不詳ながら原宿村に移転したといいます。明治維新後には、当寺の寺子屋児童などが収容されて当寺向かいに隠原小学校が開校したといいます。

長安寺
長安寺の概要
山号 大寶山
院号 龍泉院
寺号 長安寺
本尊 阿弥陀如来像
宗派 浄土宗
住所 渋谷区神宮前3-8-4
葬儀・墓地 -
備考 -



長安寺の縁起

長安寺は、品誉長悦(慶長4年寂)が開山となり赤坂に創建、その後年代は不詳ながら原宿村に移転したといいます。当寺の地蔵尊は、大和矢田寺の僧満米の作と伝え、世に満米地蔵と称し、これを信仰すれば、家内に米の尽きることがないといわれて著名だったといいます。

新編武蔵風土記稿による長安寺の縁起

(原宿村)長安寺
浄土宗京都知恩院末大寶山龍泉院と號す、或書に赤坂長安てらと記せしものあれは、後年當所に移りしこと知らる、開山品誉長悦慶長四年三月十日化す、本尊弥陀の立像、長三尺、脇士観音、勢至を安す、弥陀は恵心の作。
稲荷社。出世稲荷と號す。
地蔵堂。大和国矢田寺満米上人作る故満米地蔵と號す、立像長一尺、堂中に長一尺三寸五分の閻魔を安す、小野篁作と云、臀に焼跡あるを以て焼閻魔と號す、此唱につきて寺傳あれと證となし難し。
井。代々木八幡出現の井と云傳ふ、来由詳ならず。
鐘楼。享保十八年の鐘をかく。(新編武蔵風土記稿より)

「渋谷区史」による長安寺の縁起

長安寺(原宿一丁目一六三番地)
浄土宗、大寶山滝泉院という。起立は詳でない。開山品誉長悦は、慶長四年三月に寂しているから、それ以前の建立である。もと赤坂一つ木にあつたが、元禄八年二月八日炎上の後、原宿に移つた。京都知恩院末。本尊は阿彌陀如来。伝恵心僧都の作。境内四百八十八坪。地蔵堂、鎮守稲荷社、享保十八年在銘の鐘を掲げた鐘楼などがあつた。地蔵堂の地蔵尊は、大和矢田寺の僧満米の作と伝え、今本堂に安置せられている、世に満米地蔵と称し、これを信仰すれば、家内に米の尽きることがないといわれ、江戸時代には、特に有名であつた。満米(まんべい)は、本名を満慶という。「小野篁と共に、冥府に遊び、将に辞せんとする際、大王から小箱を贈られた。箱の中には、米があり、取るに従つて充満し、尽きることがない。即ち冥府より帰り、良工に命し、獄中地蔵の愛を刻せしめて、寺に納めた」ことが、「元享釈書」に見えている。この伝説が、やがて満米地蔵の縁起となつた。また小野篁作と伝える閻魔の像は、臀部に焼痕があるので、尻焼閻魔と呼ばれ、これも有名であつたが、今は伝わつていない。門内の井を「代々木八幡出現の井」という。来歴は詳かでない。八幡の祭礼には、必ず水が涸れたとの伝説が残つている。
寺堂は、安政五年二月、青山大火の時に炎上し、間もなく再建せられたが、記録文書寺寶は総て焼失したという。寺門は所謂赤門で、浄土宗でも高い格式であつたが、近年朽損して改築し、もはや昔の面影がなかったが元は長安寺の赤門といわれて、世上に知られていた。江戸時代には、相当に栄えたものと見えて、
ドンゝカツカの海蔵寺、白水流しの長安寺、あつてもくれない妙円寺
という俚謡がある。施餓鬼の時、米をとぐことの多いのを称えたのであろう。(「渋谷区史」より)


長安寺の周辺図


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