香林院|渋谷区広尾にある臨済宗大徳寺派寺院

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瑞泉山香林院|松平真次が開基

香林院の概要

臨済宗大徳寺派寺院の香林院は、瑞泉山と号します。香林院は、松平真次が開基となり、大給松平氏の菩提寺として純山和尚(貞享2年寂)を開山に迎えて寛文五年(1665)麻布小山に創建、寛文8年(1668)の江戸大火により当地へ移転したといいます。

香林院
香林院の概要
山号 瑞泉山
院号 香林院
寺号 -
住所 渋谷区広尾5-1-21
本尊 釈迦如来
宗派 臨済宗大徳寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



香林院の縁起

香林院は、松平真次が開基となり、大給松平氏の菩提寺として純山和尚(貞享2年寂)を開山に迎えて寛文五年(1665)麻布小山に創建、寛文8年(1668)の江戸大火により当地へ移転したといいます。

御府内寺社備考による香林院の縁起

香林院
寛文五乙巳年於麻布小山建立之所同八年類焼ニ付移転本字再建。
開山純山和尚貞享二乙丑年五月八日寂景徳院開山愚渓和尚嗣法也。
客殿五間半ニ九間、本尊釈迦如来木座像。(御府内寺社備考祥雲寺項より)


香林院所蔵の文化財

  • 香林院と大給恒の墓
  • 歴代頂相画附絶山宗信像(模本)(渋谷区指定有形文化財)
  • 香林院茶室(渋谷区指定有形文化財)

香林院と大給恒の墓

香林院は、大給松平氏の菩提寺として、寛文五年(1665)に建立されました。開基は大給恒の先祖真次で、法名から寺号を香林院としました。
大給松平氏は、松平一門として徳川幕府に仕えました。その本拠は三河ですが、竜岡城(現長野県佐久郡臼田町。国指定史跡)は、恒が造った江戸時代の最後の城郭建築で、函館の五稜郭とともに我が国には珍しい洋式の城です。
恒は明治維新後に姓を大給と改め、新政府の要職に就きました。明治十一年(1878)には、賞勲局副総裁となり、同二十八年には、総裁となりました。日本の勲章制度の礎を築くとともに、彼が考案した日本古来の伝統に基づく勲章のデザインは現在も使われています。
また、明治十年(1877)五月に、佐野常民らと日本赤十字社の前身である博愛社を創設し、常民とともに初代副総長となり、日本の医療・福祉制度の整備に努めました。
墓は、この説明版の左手奥、祥雲寺山内の墓地にあり、大きな墓碑には「枢密院顧問官正二位勲一等伯爵大給恒墓明治四十三年一月六日甍」と刻まれています。(渋谷区教育委員会掲示より)

歴代頂相画附絶山宗信像(模本)

「頂相」は高僧の頂(頭部)の相貌という意味で、一般には、禅宗の肖像を指して用いられます。中国僧の頂相が伝来した日本では、鎌倉時代末期から室町時代にかけて臨済宗系の寺院で作成され盛行しました。
臨済宗大徳寺派に属する当院の頂相画は、近世の作例で、開祖の絶山宗信から十二世の洞明宗仙まで、十八世初頭から二十世紀半ばまでの像が揃っています。
香林院の頂相は、寿像(生前の像)の多いことが特筆され、像主の容貌を忠実に伝えている可能性が高いものです。
また、ほぼ全ての作例が、画賛の年紀などからその制作年代が判明し。多くの作例で絵師名が知られることから、頂相画の研究資料としても貴重なものです。(渋谷区教育委員会掲示より)

香林院茶室(渋谷区指定有形文化財)

香林院茶室は、仰木魯堂が大正八年(1919)に自らの茶室として設計施工したものです。
魯堂は近代の茶室建築に深く関わった人物で、大正四年(1915)には、三井財閥の益田鈍翁(孝)の茶室で御殿山にあった為楽庵の工事の一部を担当しました。
近代の財界人による茶の盛行を主導したのは、鈍翁、団琢磨、高橋箒庵、原三渓らですが、魯堂はこの動きに深く関わり、茶人として高い評価を受けていました。
かつて都心にあった財界人の邸宅には、このような茶室が数多くありましたが、戦災でその大半が焼失し、また戦後の再開発によっても多くが取り壊されました。魯堂の茶室もほとんどが失われ、数棟が現存するのみです。香林院茶室は、元の所在地に残されたものとしては唯一のものです。(渋谷区教育委員会掲示より)

香林院の周辺図