松山城跡。比企郡吉見町北吉見にある旧跡・名所

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松山城跡。西側に市野川、南に深田を抱えた巌石を利用した山城

松山城跡の概要

松山城跡は、比企郡吉見町北吉見にある名所旧跡です。松山城跡は、西側に市野川、南に深田を抱えた巌石を利用した山城で、かつては頂上に池水をたたえていた天然の要害だったといいます。築城時期は不明ながら、新田義貞が陣営として利用したり、応永年間の上田左衛門・上田上野介が居城として利用したりされ、その後太田道灌が江戸城、川越城、岩槻城を築いた頃に松山城も体裁が整ったのではないかといいます。関東制覇をもくろんだ北条氏と、上杉管領家を擁した長尾輝虎(上杉謙信)との闘いで松山城は注目を浴びたものの、豊臣秀吉の小田原北條攻めで落城、その後入城した松平家広が浜松へ転封となり慶長6年(1601)に廃城となったといいます。菅谷館跡杉山城跡小倉城跡と共に「比企城館跡群」として国史跡に指定されています。

松山城跡
松山城跡の概要
旧跡・名所名 松山城跡
区分 -
入場時間 -
入場料 -
住所 比企郡吉見町北吉見298
備考 -




松山城跡の縁起

松山城跡は、西側に市野川、南に深田を抱えた巌石を利用した山城で、かつては頂上に池水をたたえていた天然の要害だったといいます。築城時期は不明ながら、新田義貞が陣営として利用したり、応永年間の上田左衛門・上田上野介が居城として利用したりされ、その後太田道灌が江戸城、川越城、岩槻城を築いた頃に松山城も体裁が整ったのではないかといいます。関東制覇をもくろんだ北条氏と、上杉管領家を擁した長尾輝虎(上杉謙信)との闘いで松山城は注目を浴びたものの、豊臣秀吉の小田原北條攻めで落城、その後入城した松平家広が浜松へ転封となり慶長6年(1601)に廃城となったといいます。

吉見町・埼玉県掲示による松山城跡について

松山城跡
この城跡は、戦国期における山城の姿がほとんどそのままに残されている貴重な文化財である。
市野川に突き出た部分から本城(本丸)、中城(二の丸)、春日丸、三の丸と南西から北東に向って一線上に並び、その両側に多くの曲輪や平場をもっている。この主曲輪郡の東方にも第二次的な施設があったが、太平洋戦争後の土地開発で全く原形を失ってしまった。
城史は、古代にさかのぼるとも言われるが、一般的には鎌倉時代の新田義貞陣営説、応永年間初期の上田左衛門尉説、応永二十三年(一四一六年)ごろの上田上野介説などがある。しかしながら、城郭としての体裁を整えたのは、太田氏が、江戸、川越、岩槻の各城を築いた時期に近いものと思われる。
この城が天下に知られたのは、今から四、五百年前の天文年間から永禄年間のことで、城をめぐっての上杉、武田、北条の合戦は有名である。のち、豊臣勢に攻められ、天正十八年(一五九〇年)落城した。歴代の城主上田氏の滅亡後は、松平家広一万石の居城となったが、松平氏が慶長六年(一六〇一年)浜松に転封されたのを最後に廃城となった。(吉見町・埼玉県掲示より)

新編武蔵風土記稿による松山城跡について

(根小屋村)
松山古城
連山の端にあり、是を望めば孤山の如し、麓に市の川を帶び、南に深田あり、巌石直立す、古は頂上に池水をたたへしが、今は埋みたり、天然の要害なり、本丸跡より、市の川へ涯へ下る峡道あり、地勢巌窟の如し、其中腹は即岩室觀音堂の所在なり、此城の沿革を尋るに、正慶三年新田義貞上野國より鎌倉へ攻め上らんとせし時、此處へ出て假に要害を構へ、軍兵屯せしと云、されど慥なる證跡あるにあらじ、後扇谷上杉氏の家老上田左衛門尉、處を見て要害を取立、秩父郡御堂村より移りしと云、按に【鎌倉大草紙】應永二十三年十月六日、六本松合戦の條に、扇谷上杉弾正氏定の臣松山城主上田上野介戦死すと云が、築城は是より先なること知らる、後長享二年源政氏家臣上杉定正等、爰宿陣せしと云、其後の事にや、上田氏一旦此所を去しとなり、想ふに永正七年長尾爲景謀叛の時、上田蔵人入道爲景に應じ、橘樹郡権現山に楯籠、力盡て逐電せし時の事にや、天文六年上杉朝定、北條氏綱が爲に居城川越を没落せしとき、當城へ遁入しに、城には難波田弾正入道善吟籠れり、慕ひ来る敵を追拂はんとて、弾正出馬しけるが、又敗走せしを山中主膳追懸、【拾遺集】難波女の歌を飜案して、惡からし善かれとて社戰はぬ、何難波田が崩行らんと云かけしとき、弾正も數奇の道なれば、駒の頭を引返して、君を置てあたし心を我持は、末の松山波も越なんと、【古今集】の歌を其儘採て、主将朝定を置て討死せば、松山は敵に乗取らるべしと云意を述けるは、當意即妙なりと、世の人口にも膾灸せり、同十二年十月より、古河公方晴氏兩上杉と同く、川越城を圍み攻し時も、當城を根城とせしが、同十五年四月北條氏康後詰として出馬し、同二十日の夜軍に、上杉討朝定も討死し、難波田は燈明寺口の古井に陥て死し畢ぬ、此時城中に上田又次郎政廣(後號暗碑斎)が留守たりしを、北條氏の軍勢機に乗て乗取、堀和刑部少輔を城代とす、時に太田美濃守資時岩槻に在しが、政廣が足戸砦に蟄居せしを、語らひて、同年八月二日夜に乗て取返し、太田下總守廣澤尾張守を本丸に籠め、上田政廣をば二丸に置けるが、資時沒て後上田北條氏へ内通せしにより、頓て堀和を大将として、再び當城を乗取、上田政廣を籠置しが、永禄四年上杉輝虎威を關左に振ひしにより、太田美濃守資正是に應じ、終に又攻取て、上杉左衛門太夫憲勝を籠置、然るに其年の冬、北國積雪の間を時として、北條武田兩旗にて出馬し、十二月十一日より明る春に至まで、取圍で攻けれども陥らず、寄手の内勝式部少輔は、資正の舊識なれば、城に入て和議を謀る、又甲州の奉行人飯富源四郎辯舌を以、利害を諭けるにぞ、三月三日和議成て、翌四日城を請取、舊主なればとて、上田又次郎を置て去る、是より小田原の抱となりて、上田氏居住す、天正十八年小田原陣の時、城主上野介朝廣は、小田原へ籠城し、留守として難波田因幡守・木呂子丹波守・若林和泉守・山田伊賀守・山田市兵衛・田中傳兵衛・原藤右衛門・小倉井雅楽助・田中藤九郎・根岸長兵衛等籠りしが、寄手羽柴利家父子大手より攻来り、上杉景勝は搦手に寄せ、毛利・小笠原・佐奈田・天道寺等同進て押詰、已陥るべかりしを、城下の僧扱で降参しける、是四月十二日也、御入國の後、松平内膳正家廣に賜はりしが、慶長六年二月家廣遠州濱松へ移されてより廢城となる、土地の傳説と、諸記録に載る處とを斟酌して、記す事斯の如し、然に土人の説によれば、落城せし年代を永禄九年とも、元龜元年ともいへど、時勢を以て考るに誤なるべし、又傳ふ今も西の曲輪より、焼米多く出るは、元龜三年三月二日兵燹にかかりし時のものなりと云、又廣澤系圖に、廣澤曲輪と云名見ゆ、何れの曲輪なることをしらず、尾張守忠信が居跡なるべし、(新編武蔵風土記稿より)


松山城跡の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」

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