杉山城跡。比企郡嵐山町杉山にある旧跡・名所

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杉山城跡。国指定史跡比企城館跡群

杉山城跡の概要

杉山城跡は、比企郡嵐山町杉山にある名所旧跡です。杉山城跡は、長享(1487-1489)・永正(1504-1521)の乱に際して関東管領山内上杉憲房が、扇谷上杉氏に対抗するために築城したとされ、松山城主上田氏の家臣杉山(庄)主水の居城だったと伝えられます。戦国時代に築城された典型的な山城で10余りの郭を配置、松山城と鉢形城を連絡する軍事上の重要拠点だったとされます。土塁や堀など遺構の保存状態も非常に良く、菅谷館跡東松山城跡小倉城跡と共に「比企城館跡群」として国史跡に指定されています。

杉山城跡
杉山城跡の概要
旧跡・名所名 杉山城跡
区分 国指定史跡
入場時間 -
入場料 -
住所 比企郡嵐山町杉山757
備考 私有地




杉山城跡の縁起

杉山城跡は、長享(1487-1489)・永正(1504-1521)の乱に際して関東管領山内上杉憲房が、扇谷上杉氏に対抗するために築城したとされ、松山城主上田氏の家臣杉山(庄)主水の居城だったと伝えられます。戦国時代に築城された典型的な山城で10余りの郭を配置、松山城と鉢形城を連絡する軍事上の重要拠点だったとされます。土塁や堀など遺構の保存状態も非常に良く、菅谷館跡東松山城跡小倉城跡と共に「比企城館跡群」として国史跡に指定されています。

境内掲示による杉山城跡について

国指定史跡杉山城跡
この城は、室町~戦国時代の築城と推定される典型的な山城である。総面積は七・六ヘクタールにも及び、急峻な丘陵を巧みに利用して十余の郭を理想的に配している。まさに自然の要害と呼ぶにふさわしい県内でも有数の城である。現存する遺構の保存状態も非常に良く、複雑に入り組んだ土塁や堀によって構成される城構えに当時の高度な築城技術が偲ばれる。
また、城の立地にすいても、北方で四津山城・高見城・越畑城に連絡し、南方に鎌倉街道を見下して、その遠方に小倉城を臨むという絶好の条件を備えている。当時の社会情勢から判断して、松山城と鉢形城を連絡する軍事上の重要拠点であったと考えられる。
築城年代や城主名等に不明な点も多いが、一説には、松山城主上田氏の家臣杉山(庄)主水の居城と伝えられている。(埼玉県教育委員会・嵐山町教育委員会掲示より)

境内掲示による杉山城跡について

杉山城跡
この城跡は、戦国時代の築城と推定される典型的な山城です。総面積は約八ヘクタールにも及び、山の高低差を巧みに利用して十あまりの郭を理想的に配置しています。まさに自然の要害と呼ぶにふさわしい県内でも屈指の名城と評価されています。現存する遺構の保存状態も非常に良く、複雑に入り組んだ土塁や堀によって構成される城構えには当時の高度な築城技術が偲ばれます。「馬出」や「枡形」の塁線を屈曲させて構える「横矢掛かり」の多用はその典型とされるものです。また、城の立地についても、北方に越畑城・高見城と連絡し、西方全体に鎌倉街道を見下ろすという絶好の条件を備えています。当時の社会情勢から判断して、松山城と鉢形城とをつなぐ軍事上の重要拠点の一つであったと考えられます。築城年代や城主名等に不明な点も多いですが、地元では、松山城主上田氏の家臣杉山(庄)主水の居城と伝えています。
この城跡は、すべて私有地であり地権者のご理解とご協力によって公開されているものです。文化財保護にご理解いただき、利用、見学をしていただくようお願いいたします。(嵐山町教育委員会掲示より)

境内掲示による杉山城跡について

杉山城の概要
杉山城跡は鎌倉街道を見下ろす丘陵上につくられています。傾斜が急な切岸、各郭にめぐらされた横堀と屏風のように連絡する折れ、さまざまな形態の虎口などが複雑に組み合させていて、高度な築城技術の粋を集めたこの城は、実践のための城としての風格をもち、戦国期山城の最高傑作と高い評価を得ています。
城郭研究者やお城好き、歴史ファンの方々が県外からも訪れる隠れた観光スポットです。
これまで築城年代や築城者が不明でしたが、国指定文化財に向けた発掘調査で出土した土器などから15世紀末から16世紀はじめ頃であることがわかり、さらに”杉山の陣”についての古河公方・足利高基の古文書も発見され、関東中が戦乱となった長享・永正の乱において関東管領・山内上杉憲房が扇谷上杉氏に対抗するために築城したということがわかってきました。
未だ、城郭の発掘調査が完了していないため、現在、保存整備計画も同時に計画中です。新たな発見、整備にご期待ください。(嵐山町教育委員会掲示より)

新編武蔵風土記稿による杉山城跡について

(杉山村)
壘蹟
村の中程にて、小高き丘の上千五百坪許の地を云、一説に往昔金子十郎家忠の、居住なりしといへど詳ならず、又の傳へに中古上田氏の臣にて、庄主水(或は杉山主水とも)と云者住せし所とも云り、按に隣村越畑村にも庄主水が居住の地あり、是當國七黨の内、兒玉黨の庄權頭廣高庄太郎家長等が子孫などにや、又北條家人にも庄式部少輔・庄新四郎の名見えたり、若くは是等の一族ならん、(新編武蔵風土記稿より)


杉山城跡の周辺図


参考資料

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