慈眼寺。さいたま市西区水判土にある天台宗寺院

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慈眼寺。第三代天台座主慈覚大師円仁が開山、水判土観音

慈眼寺の概要

天台宗寺院の慈眼寺は、普光山華蔵院と号します。慈眼寺は、第三代天台座主慈覚大師円仁が天長3年(826)に開山、古くは蓮華寺と称していたといい、いつの頃からか普光山浄蓮寺と称するようになったといいます。徳川家康が関東に入国した際に寺領10石の御朱印状を拝領、(喜多院住職で後に上野寛永寺を開山した)慈眼大師天海大僧正の弟子円海上人が中興したといいます。また当寺には、800年を生きたという八百比丘尼が大化元年(645)に地蔵尊を安置して開基したとの伝えもあるといいます。関東百八地蔵霊場4番、足立坂東観音霊場32番です。

慈眼寺
慈眼寺の概要
山号 普光山
院号 華蔵院
寺号 慈眼寺
住所 さいたま市西区水判土462
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



慈眼寺の縁起

慈眼寺は、第三代天台座主慈覚大師円仁が天長3年(826)に開山、古くは蓮華寺と称していたといい、いつの頃からか普光山浄蓮寺と称するようになったといいます。徳川家康が関東に入国した際に寺領10石の御朱印状を拝領、(喜多院住職で後に上野寛永寺を開山した)慈眼大師天海大僧正の弟子円海上人が中興したといいます。また当寺には、800年を生きたという八百比丘尼が大化元年(645)に地蔵尊を安置して開基したとの伝えもあるといいます。

境内掲示による慈眼寺の縁起

当山は天長三年(西暦八二六年)に第三代天台座主慈覚大師円仁によって開山され、以来凡そ千二百年の間、歴史の荒波にもまれながら、その法灯を今日まで守り伝えている。当山の呼称は、記録によれば始め「蓮華寺」であったとされ、その後「普光山浄蓮寺」に改名、そして、いつの頃からか現在の「慈眼寺」と呼ばれるようになった。戦国期の焼き討ちにより寺運の衰えた時期もあったが、徳川家康入府後、慈眼大師天海の弟子、円海上人によって中興され現在に至る。慈眼寺境内の建物・仏像等の多くはこの中興から江戸中期にかけてのもので、老朽化が進み傷みの激しい箇所も出てきたことから、平成の世、中興二十世工藤晃文住職の代に、文字通り三百年に一度と言える全堂大改修工事が行われた。仏天の加護と高志の人材、また多数の篤信者の支持によって、この平成諸堂大建立が十有余年の歳月をかけて円成したことを記念し、茲に碑を建てる。(境内掲示より)

新編武蔵風土記稿による慈眼寺の縁起

(水判土村)慈眼寺
天台宗、入間郡小仙波村中院の末、普光山浄蓮院と號す、古は蓮華寺と稱せし由、正保の頃のものには猶しか記したり、されど其改めし年月は詳ならず、開山は慈覺大師にて殊に八百比丘尼の古迹なれば、古は堂宇の營み嚴かなりしかど、中古戦争の世にあひて姑く衰廢せしを、御入國の後寺領十石の御朱印を賜ひて、やや舊観に復せり、されど多年荒廢の間に、舊記等すべて失ひたれば、其詳なることを知らずと云、古き過去帳を蔵す、序文に永正十年佛滅日實海序とあれど、其頃書しものとも思はれず、中興開山を圓海と云、延寶二年十一月八日示寂、本尊大日を安ず、當寺は元城壘のありし所と云傳ふれど、何人の居住なりしや其姓名を失ふ、今も境内の様なだらかに高く、古木數十株並び立、其間に諸堂を結び、前は田圃に臨みて佳景の地なり。
観音堂。縁起の略に云ふ、天長年中勅願によりて慈覺大師一刀三禮して刻める所なり、脇士の不動毘沙門も同作なり、中古衰廢の砌此像を岩槻の慈恩寺へ遷座せしに、住僧の夢に入て靈意に叶はざるの告ありしかば、後當所へ歸座せしと云。
鐘楼。元禄四年住僧堯辨が時鑄造せし鐘なり、銘文あれど考證に益なければとらず。
地蔵堂。黄金佛にて長一寸八分、傳へ云此像は八百比丘尼の守護佛にて、壽地蔵と呼べりと。門外に石標を立て共舊跡なることを示す、此像も中古荒廢より以来、何れへか失ひて見えざりければ、代々の住僧深く是を愁へ、諸方を尋ねけれども求め得ざりしに、享保年中はからず境内土中より掘出せしと云、其語り岩洞の内に安じ、岩の裏に孝の字かすかに見え、其左右に八百比丘尼大化元年とありしよしなれど、秘佛なりとて見ることを許さず、又かの尼が手づから植し木あり、先年枯れて今二王門の庇の下に片寄てあり、太さ五圍に餘り、木理檟の木と見ゆ、彼尼が植たることは姑く置きて、いかさま數百歳をへしものと思はる、さてこの尼は上古若狭國にありて、常に延命地蔵を信じ、一千の小石を集めて多年の供養を重ねしかば、其功徳により悟道徹底し、遂に人間の塵縁を免れ、妙齢不老にして八百歳の壽を保てりと云、或は云彼尼は若州小松原の産なりしが、幼時父海濱に釣して怪き魚を得たり、即ちこれを食はしめしに、夫より年を重ぬといへども、容貌衰へず、同國後瀬山の麓空印寺境内の岩洞に隠れ住、遂に八百歳に及ぶ、故に人呼でかく名付くと、肌膚至て白かりければ、一に白尼ともよぶ、寶徳年中洛に至り、常に源平盛衰のさまなど、面のあたり見たりとて物語せしと云、寶徳より大化元年まで八百年に餘れば、計へ来てかくは呼しなるべし、いかにも妄誕の説に似たれど、舊く云傳ふることなれば、若狭國志等によりてほぼその傳をしるしをきぬ。
閻魔堂。堂中に、聖徳太子及び歓喜天の像を安ず。
熊野山王合社。村の鎮守なり相殿として東照宮を鎮座し奉りぬ。
塔中。正蔵院、浄福院。(新編武蔵風土記稿より)


慈眼寺の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」