川越大師喜多院。天台宗別格本山
喜多院の概要
天台宗寺院の喜多院は、星野山無量寿寺と号します。喜多院は、天長7年(830)慈覚大師が勅命により無量寿寺と称して創建しました。元久元年に堂宇を焼失したものの、永仁4年(1296)、尊海が慈恵大師を勧請して当寺を再興し、北院・中院・南院となる各房が建てられました。江戸崎不動院の住職だった天海僧正(慈眼大師)が天正16年(1588)頃より喜多院を兼務、慶長17年(1612)には徳川家康から500石の御朱印を受領しています。寛永15年(1638)川越の大火後で全焼、再建では、徳川家光の命により江戸城紅葉山から客殿、書院を移築、現存しており、「家光誕生の間」「春日局化粧の間」と伝えられている部屋があります。寛文元年(1660)には祭田料200石を加えられ、旧領50石と併せ750石の寺領を擁していました。現在、数多くの文化財を有している他、初大師・だるま市等の行事があり、川越大師として親しまれ、天台宗別格本山となっています。関東三十六不動28番不動、小江戸川越七福神の大黒天です。
山号 | 星野山 |
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院号 | 喜多院 |
寺号 | 無量寿寺 |
住所 | 川越市小仙波町1-20-1 |
宗派 | 天台宗 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
縁日 | 1月3日初大師だるま市 |
葬儀・墓地 | 喜多院斎霊殿 |
備考 | 御朱印寺、関東三十六不動28番不動、小江戸川越七福神の大黒天 |
喜多院の縁起
喜多院は、天長7年(830)慈覚大師が勅命により無量寿寺と称して創建しました。元久元年に堂宇を焼失したものの、永仁4年(1296)、尊海が慈恵大師を勧請して当寺を再興し、正安3年(1301)には東国の天台宗本山たるべき勅書を受領、北院・中院・南院となる各房が建てられました。江戸崎不動院の住職だった天海僧正が天正16年(1588)頃より喜多院を兼務、慶長17年(1612)には徳川家康から500石の御朱印を受領しています。寛永15年(1638)川越の大火後で全焼、再建では、徳川家光の命により江戸城紅葉山から客殿、書院を移築、現存しており、「家光誕生の間」「春日局化粧の間」と伝えられている部屋があります。寛文元年(1660)には祭田料200石を加えられ、旧領50石と併せ750石の寺領を擁し、小仙波前部及大仙波の一半を寺領としていました。現在、数多くの文化財を有している他、初大師・だるま市等の行事があり、川越大師として親しまれ、天台宗別格本山となっています。関東三十六不動28番不動、小江戸川越七福神の大黒天です。
「入間郡誌」による喜多院の縁起
第四節小仙波の草創及發達
(一)仙芳仙人の郷土開創説話
武州入間郡仙波郷は往古海沼にして、民人寄籍の地にあらず、時に神仙あり、仙芳と名く、嘗て海頭に来て歎じて曰く、此地古佛説法の靈跡也。今は滄海漫々たりと。時に一老翁の卒爾として来るあり。仙、其何人なるを問ふ。翁答て曰く、我は龍神の化作する所、此海の主なりと。爰に於て仙、翁に就て一小地を得せしめんとを請ふ。翁其廣量を問ふ。仙の曰く、我に袈裟あり。願くは量此と斎ふせんと。翁諾す。承即ち袈裟を将て波上に布くに、延て海沼と合せんとす。翁驚て曰く、今神術の爲の故に潭底我居を失ふ。是を如何せんと。承乃ち小池を留て神龍の居を復す。(今の辨天池是也)又土佛を作て波底に投ずるに海水乾て地忽ち堅牢たり。云々、とは是れ喜多院縁起に記す所也。蓋し郷土草創に關する一説話となすべし。
(中略)
(二)喜多院の創設及再興傳説
淳和天皇天長七年、慈覺大師、勅命を奉じて、伽藍を小仙波の地に經營し、無量壽寺の號を賜はり、堂後に石刻の一切經を瘞め、一小丘を築き、上に二層の塔を造り(此處を經山と云ふ)左に山王を祀る。右に白山社を置き、其傍に法華三昧堂を建立し、以て鎮護の道場とせりと云ふ。其後元久元年丙焚にかゝり、寺宇廢すると九十餘年、伏見天皇永仁四年に至り、尊海僧正勅を奉じて之を再營す。正安三年二月東國天台の本山たるべきの勅書あり。後奈良天皇星野山の震翰を賜ふ。天文六年の合戰に再び兵火の犯す所となり、爲に微々として僅に其燈を掲ぐるのみにして天海僧正に至れりと云ふ。之を喜多院創設及再興の傳説となす。
恰も此頃、仙波氏あり。武蔵七黨村山黨の一派にして、鎌倉時代に其名あらはれたり。大仙波の條参照すべし。小仙波大仙波の別は甚だ古く行はれたるものにあらず。
(三)天海僧正と喜多院
天海僧正と喜多院に就ては諸書頗る之を記せり。慈眼大師傳記の如き、兩大師傳記の如き是也。然れども甚だ誤謬多く、適歸する所を知らざるもの少からず。抑も天海が喜多院に住するに至りしは一般には慶長四年と稱すと雖、仔細に考ふるに天正十六年慈眼大師初菅仙波と記せる仙波川越由来其外見聞記及延寶八年の喜多院縁起の説を以て正しとすべし。天海は此にありて常陸國信太の不動院を併せ管し、天正十八年十月一日徳川家康に江戸に謁せるものゝ如し。謁見のこと天正日記に見ゆ。慶長十六年十一月一日家康放鷹して川越に至り、天海之に候す。家康は因て仙波所化堪忍料として寺領寄附の意思を告げ、十七年四月十九日天海参府し寺領三百石を寄附せられ、同年閏十月二十日家康復川越に狩して、領主酒井忠利に命じ、喜多院を修造せしむ。一説に喜多院は此時、星野山の舊號を改めて、東叡山と號し、後上野寛永寺の成るに及て、東叡山を彼に譲りて、舊號星野に復したりと稱すれども果し然るや否やを知らず。
慶長十八年八月慈惠堂建立成り、家康来て、論議聴聞す、十九年八月に至りて大堂以下成る。元和二年家康薨じ、久能山に葬り、翌年屍體を日光山に移すに當り、關戸府中を經て、三月二十三日の朝早く武蔵野の草叢を分け、小川、久米川、所澤を經て、仙波の大堂に着き、二十六日まで駐まりて後、井草、松山を過ぎ日光へ赴きたり。故に寛永十年正月十三日起工東照宮造營の事あり。然るに十五年に至り川越に大火あり、火勢小仙波に及び、全山遂に焼土と化せしかば、徳川家光、川越城主堀田正盛に命じ、之を再營せしめ、十七年再び舊觀に復す。本堂、慈眼王、山王社、多寶党等嚴然たり。寺院は江戸紅葉山の別段を遷せるなり、此時建てられたる本地堂は明治十年寛永寺に寄附せり。
而して天海寂す。正保二年慈眼堂を立て、天海の像を安置し、慶安元年慈眼大師と謚せり、寛文元年祭田二百石を加賜せられ、舊領五十石(朱印外)前朱印五百石(駿府記には三百石)と併せて七百五十石となり、小仙波前部及大仙波の一半を領す。之より喜多院の勢力益振へり。今慈眼堂に存する天海像は神彩明に院に蔵する天海の東叡山建立に關する文書は史徴墨寶にも出でたり。(「入間郡誌」より)
喜多院所蔵の文化財
- 客殿(国指定重要文化財)
- 書院(国指定重要文化財)
- 庫裡(国指定重要文化財)
- 慈眼堂(国指定重要文化財)
- 山門(国指定重要文化財)
- 鐘楼門附銅鐘(国指定重要文化財)
- 紙本着色職人尽絵(国指定重要文化財)
- 宋版一切経絵(国指定重要文化財)
- 暦応の古碑(県指定史跡)
- 慈恵堂(県指定有形文化財)
- 多宝塔(県指定有形文化財)
- 番所(県指定有形要文化財)
- 木造天海僧正坐像(県指定有形文化財)
- 延文の板碑(市指定考古資料)
- 天海版一切経(市指定文化財)
- 松平大和守家廟所(市指定史跡)
慈眼堂
天海僧正は寛永20年(1643)10月2日寛永寺において入寂し、慈眼大師の謚号をおくられた。そして三年後の正保2年(1645)には徳川家光の命によって御影堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置されたのが、この慈眼堂である。一名開山堂ともよび、桁行三間(5.45m)、梁間三間で、背面一間通庇付の単層宝形造、本瓦葺となっている。宝形造は、四方の隅棟が一ヶ所に集まっている屋根のことで、隅棟の会するところに露盤があり、その上に宝珠が飾られている。(埼玉県・川越市教育委員会掲示より)
鐘楼門附銅鐘
江戸時代の喜多院の寺域は現在よりも相当広く、当寺鐘楼門は、喜多院境内のほぼ中央にあり、慈眼堂へ向う参道の門と位置づけられます。また、上層にある銅鐘を撞いて時を報せ、僧達の日々の勤行を導いたと考えられます。
鐘楼門は、桁行三間、梁行二間の入母屋造、本瓦葺で袴腰が付きます。下層は角柱で正面中央間に両開扉を設け、他の壁面は堅板張の目板打です。上層は四周に縁・高欄をまわし、角柱を内法長押、頭貫(木鼻付)、台輪でかため、組物に出三斗と平三斗を組みます。中備はありません。正面中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの雲竜の彫物をかざり、背面も中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの花鳥の彫物を飾ります。上層には、元禄15年(1702)の刻銘がある椎名伊予藤原重休作の銅鐘を吊っています。寛永15年(1638)の大火に焼け残ったともいわれますが、細部意匠などから判断して銅鐘銘にある元禄15年頃の造営と考えるのが妥当だと考えられます。(川越市教育委員会掲示より)
暦応の古碑
暦応の古碑として指定されているが、その実は「暦応□□□□□月十五日」の銘のある板石塔婆で、上部に弥陀の種子キリークを刻し下半部に52名にのぼる喜多院(無量寿寺)の歴代の住職の名と見られる者を刻している。喜多院の歴代の住職の名を知る資料は他にないので、この銘文が重要な意味を持つところから、県の史跡として指定になったものである。梵字の真下中央に「僧都長海現在」とあるので、暦応(南北朝時代初期)の頃の住職であったことがわかる。(埼玉県・川越市教育委員会掲示より)
延文の板碑
暦応の板碑とならんで立っている延文三年のこの板碑は、高さ276cm、最大幅69.4cm、暑さ9cmで川越市最大の板碑である。暦応の板碑と同様に、上部に種子キリークがあり、そのもとに、僧1、法師2、沙弥32、尼21、聖霊4、の合計60名が刻まれており「一結諸衆/敬白」とあり、文字通り結衆板碑である。
聖霊の4名は喜捨を募ってから板碑に刻むまでに少なからず歳月を費やしたことが考えられる。暦応の板碑が喜多院の歴代の住職の名を記したのに対し、この板碑は、その殆んどが沙弥と尼で、共に僧階は最も低く、僧、法師が導師となって、在俗の人々が結衆したことがわかる板碑である。(埼玉県・川越市教育委員会掲示より)
喜多院の周辺図