氷川女體神社。さいたま市緑区宮本の神社

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氷川女體神社。氷川神社を構成していた社、三室郷総鎮守、旧郷社

氷川女體神社の概要

氷川女體神社は、さいたま市緑区宮本にある神社です。氷川女體神社の創建年代は不詳ながら、大宮氷川神社中山神社(氷王子社)と共に氷川神社を構成しているともいい、女體社と称して三室郷の総鎮守だったといいます。戦国時代末期より氷川女體社と「氷川」を冠するようになったといい、徳川家康より社領50石の御朱印状を拝領、三鱗文兵庫鎖太刀をはじめとして数多くの文化財を所蔵しています。

氷川女體神社
氷川女體神社の概要
社号 氷川女體神社
祭神 奇稲田姫命、大己貴命、三穂津姫命
相殿 -
境内社 竜神社
住所 さいたま市緑区宮本2-17-1
祭日 例大祭10月8日
備考 旧郷社



氷川女體神社の由緒

氷川女體神社の創建年代は不詳ながら、大宮氷川神社中山神社(氷王子社)と共に氷川神社を構成しているともいい、女體社と称して三室郷の総鎮守だったといいます。戦国時代末期より氷川女體社と「氷川」を冠するようになったといい、徳川家康より社領50石の御朱印状を拝領、三鱗文兵庫鎖太刀をはじめとして数多くの文化財を所蔵しています。

新編武蔵風土記稿による氷川女體神社の由緒

(三室村)女體社
社領五十石の御朱印は天正十九年賜ふ所、例祭は九月八日八月十四日にて、其内九月八日は隔年の舟祭りなり、此祭古へは社地より廿四五町程隔てて大なる沼あり、其内に神輿を置て舟に祭れり、其沼の内を享保十三年伊澤惣兵衛承りて水田となし、當地へは三百五十坪を除地となせしより、今も其神領はかはらず、しかせし後は社地の前新田の中五十間許築出せし地にて、彼祭をば行へり、然るに今此地をもて、神職及び土人等は當國の一ノ宮と稱すれど、一ノ宮は大宮氷川明神なることは古書にも載せ、疑ふべしともおもはれず、況や當社にはさせる舊記もなく、又文殊院所蔵の大般若経其の餘の古文書、且つ正保の國圖等、悉く女體権現とのせたれば、一宮ならんと云は附會なること論をまたず。
内陣。祭神は三體にして中央は稲田姫、左は三穂津姫命、右は大己貴命なり、其外神寶をここに収めり、圖上に出。
神楽堂。傍に寶蔵二所あり、これより神楽堂に續けり。
鳥居。額に武蔵國一宮とあり、これ附會せしより記せしなるべし、これより石階を下りし所、三沼代用水流あり、ここより望めば左右山丘なれど、其内に眼も及ばぬまで水田うちひらけ、姑く畫中の觀をなせり。
末社。神明社、住吉明神社、石上神社、天神松尾合社。
神主武笠外記。佐伯姓なり、先祖は天正十八年岩槻へ籠城して、討死せりと云、されど系圖記録等もなければ詳ならず、北條家よりの文書二通を蔵せり、其文は後にのす、又社家二人内田數馬、武笠常右衛門と云、其内常右衛門は村の里正もかぬ。
制札
三室之郷
右於此在所、軍勢甲乙人等、濫妨狼藉之事、堅停止之畢、至于違犯輩者、可處罪科状如件
大永四年八月廿六日
一虎之御印判無之而竹木剪取事
一神領不可有異儀、幷諸役者可爲如先規證文、若違犯之族有之者、爲先證文可捧目安事
以上
元亀三年十月廿八日
海保入道奉之
三室女體宮神主(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による氷川女體神社の由緒

氷川女体神社<浦和市宮本二-一七-一(三室字宮本)>
当社は旧見沼を一望できる台地の突端「三室」に鎮座する。見沼は神沼として古代から存在した沼で、享保十二年(一七二七)の新田開発までは、一二平方キロメートルという広大なものであった。この沼は御手洗として当社と一体であり、ここに坐す神は女体神、すなわち女神であった。
創建の由緒は明和四年(一七六七)に神主武笠大学の記した『武州一宮女躰宮御由緒書』(大熊家文書)によると、「崇神帝之御勧請」「出雲国大社同躰」とある。また『神社明細帳』控には、見沼近くにある当社と現在の大宮市高鼻鎮座の氷川神社、同市中川鎮座の中山神社(氷王子社)の三社を合わせ氷川神社として奉斎したと載せる。
主祭神は、奇稲田姫命・大己貴命・三穂津姫命である。
中世、旧三室郷の総鎮守として武家の崇敬が厚く、社蔵の三鱗文兵庫鎖太刀は北条泰時の奉納と伝える。
また無量寿村(川越)の性尊らは、正慶二年(一三三三)以降、川越氏繁栄のため大般若経を書写している。更に永禄四年(一五六一)から同六年(一五六三)にかけては、小田原北条氏の支配を逃れて当社に来住した仙波中院(川越)奝芸が庇護者である岩槻太田氏の戦勝を祈願して大般若経の真読を行っている(社蔵大般若経・識語)。しかし、元亀三年(一五七二)北条氏は「女体宮神社」あてに禁制(社蔵文書)を発給していることから、このころ当社の支配は岩槻太田氏から北条氏に移ったのであろう。天正十九年(一五九一)十一月、徳川家康は三室郷の内五〇石の社領を寄進した。この時初めて判物に「簸川明神」と記され、以後「女体」の社名に「氷川」を加えるようになる(社蔵文書)。寛文七年(一六六七)六月、社殿再興棟札によれば、徳川家綱が忍城主阿部忠秋を奉行として本殿を再興した。この時の棟札には「武蔵国一宮簸河女躰大明神」とあり、武蔵国一宮を冠している。
社領経営は、神主武笠家・社人内田家・社僧天台宗文珠寺・神領名主などにより行われた。武笠家は佐伯氏の流れをくみ、豊雄(豊良)の代の延宝四年(一六七六)に京都吉田家より神道裁許状(武笠神主家文書)を受けている。また、足立郡神職組織触頭の氷川神社の触下であり、「諸国一宮巡詣記」を記した神道学者橘三喜の門弟でもある。
社領運営の基盤は、五〇石の社領と鎮座地そばに広がる見沼の漁業権である(武蔵一宮簸川女体明神諸事控・大熊家文書)。社領はもともと三室村にあったが、元禄二年(一六八九)の簸川明神社領三室村之内朱印地改野帳(武笠神主家文書)では、三室村内には三〇石余となっている。年月日未詳の三室村寺社方朱印地並除地書上覚(関野家文書)には、付島村の内に二〇石余と記されており、これは寛永六年(一六二九)の見沼溜井造成により水没した三室村内二〇石分の替地が付島村の内に与えられたものと考えられる。万治二年(一六五九)の見沼漁労請負一札(武笠神主家文書)によると、見沼の漁労を請け負った網主は、幕府に魚を運上するとともに、一年に鯉七〇匹、鮒一〇〇匹を神餞として当社に奉納する旨を誓っている。その後、見沼の新田開発が進められたことにより、同新田内に除地として一〇町歩余が祭祀料として与えられている。(武笠神主家文書)。
祭祀は御船祭と称し、隔年の九月八日に見沼に坐す女神に対して行われた。まず神主は垢離取りと呼ばれる潔斎を荒川で行う。当日は、神輿船に鉾を立て神輿を載せて見沼を渡り、餅・小麦御飯・神酒を献じて祭祀を行った。しかし、古来より続けられてきた御船祭は、享保十二年(一七二七)見沼新田の開発が始められたため、沼中の祭祀が不可能になった。このためやむをえず磐船祭と称し、沼跡の新田の中に小山を築き、舟形の高壇を設けて周囲に池を掘り、ここを見沼に見立てて祭祀を行うこととし(「祭礼相続願書」武笠神主家文書)、同十四年(一七二九)九月から斎行された(女体簸河明神諸事控)。下山口新田には、祭場遺跡として「四本竹」の地名が残るが、近年の発掘調査では多数の注連竹が発見され、これを裏付けた。
現在当社には、この祭祀に使用した鉾・牡丹文瓶子・神輿が所蔵されている。鉾には「正応六年大歳癸巳」「九月八日」「佐伯祝」と刻まれる銅製円板が付いている。牡丹文瓶子(県指定文化財)は室町期、神輿(県指定文化財)は安土桃山期の作と推定されている。更に社叢は、埼玉では珍しい暖地性常緑広葉樹叢であることから、昭和五十六年に埼玉県より「ふるさとの森」の第一号として指定された。(「埼玉の神社」より)


氷川女體神社所蔵の文化財

  • 三鱗文兵庫鎖太刀一口(県指定有形文化財/国認定重要美術品)
  • 氷川女体神社神輿一基(県指定有形文化財)
  • 牡丹文瓶子一対(二口)(県指定有形文化財)
  • 紙本墨書大般若波羅蜜多経五三九巻(県指定有形文化財)
  • 氷川女体神社社殿一棟(市指定有形文化財)
  • 氷川女体神社古社宝類一括(市指定有形文化財)
  • 神明宮扁額僧伝達書一面(市指定有形文化財)
  • 北条氏綱制札一通北条氏印判状一通(市指定有形文化財)
  • 氷川女体神社社領寄進及び朱印状十二通(市指定有形文化財)
  • 氷川女体神社の名越祓え(市指定無形民俗文化財)
  • 氷川女体神社磐船祭祭祀遺跡(市指定史跡)
  • 氷川女体神社社叢(市指定天然記念物)

氷川女體神社社殿一棟

氷川女體神社は、武蔵国一宮と称され、また、古来より御船祭を行う神社として知られています。中世以降は、武家の崇敬が厚く、当社所蔵の三鱗文兵庫鎖太刀(県指定有形文化財)は鎌倉幕府執権北条泰時の奉納と伝えられ、戦国時代には岩付太田氏や小田原北条氏の庇護を受けていました。江戸時代になると、徳川幕府から社領として五〇石の地を寄進されました。また、当社に残る寛文七年(一六六七)銘の棟札等により、本殿は江戸幕府四代将軍徳川家綱が再興したものであることが明らかとなっています。
社殿は本殿と拝殿を幣殿でつなぐ複合社殿で、権現造りの形式となっています。本殿は三間社流造で、正面三間(三・五六メートル)、側面二間(二・一一メートル)、さらに向拝がついています。幣殿は両下造で、正目一間(三・五六)、側面二間(三・六三メートル)です。拝殿は入母屋造で、正面五間(九・四六メートル)、側面二間(四・五七メートル)です。さらに向拝がつき、その向拝には千鳥破風及び唐破風がついています。
平成二三年・二四年に社殿修理が行われ、屋根が杮葺きの時期があったことがわかりました。
この社殿は、埼玉県における代表的な神社本殿建築様式を伝える建造物であるとして、平成一九年に埼玉県の有形文化財に指定されました。(境内掲示より)

氷川女體神社磐船祭祭祀遺跡

氷川女體神社では、かつて御船祭と呼ばれる祭礼がおおなわれていました。これは、毎年あるいは隔年の九月八日に御座船に乗せられた神輿が見沼を渡って下山口新田の御旅所に渡御するもので、見沼の中に設けられた祭礼場跡では、何度も繰り返し竹を立てた跡や祭礼に伴うとみられる銭などがおびただしく出土しました(四本竹遺跡)。この御船祭は、見沼と深いかかわりをもった氷川女體神社の根本祭礼でした。
しかし、享保一二年(一七二七)に見沼の干拓が行われると、御船祭は行えなくなりました。そこで、新たに祭礼場を造成して、御船祭の代わりの祭礼が行われることとなりました。これが磐船祭です。
新たな祭礼場は、氷川女體神社境内の前にある見沼の干拓地に柄鏡形に池を掘り、その中に土を盛って造られました。高台にある境内から、参詣路の石段を降り、見沼代用水を渡ったところから、陸橋(御幸道)が設けられ、祭礼場へと通じていました。
祭礼場は直径三〇メートルの円形の島で、その中央には四本の竹で囲んだ斎域が設けられていました。ここに神輿が渡御し、御船祭にかわる祭礼としての磐船祭が行われていました。
磐船祭は享保一四年九月八日に初めて行われ、幕末から明治の初期頃まで行われました。その後、磐船祭は途絶えましたが、祭礼場の跡はそのままに残されてきました。
見沼と関係の深い関わりを持った氷川女體神社の祭礼を物語る遺跡として、極めて重要なものです。なお、昭和五七年度に氷川女體神社と旧浦和市教育委員会によって、復元整備事業が行われました。(さいたま市掲示より)

氷川女體神社社叢

氷川女體神社は武蔵国有数の古社で、大宮氷川神社とともに、武蔵一宮といわれています。
かつての見沼に突き出た小舌状台地上に位置しており、見沼とは非常に関係の深い神社でした。
社叢は、クスノキ、タブノキ、モチノキ、サカキ、ヒサカキ、ネズミモチ、シロダモ、チョウジカズラ、ビナンカズラなどの自然林の常緑広葉樹を中心に構成されています。下草にもキチジョウソウなどの暖地性のものがみられ、境内は暖地性植物の群生地といえます。また、スギも樹齢三百年をこえる大木が見られます。
なお、この社叢はさいたま市の「保存緑地」にもしていされています。(さいたま市教育委員会・氷川女體神社掲示より)

氷川女體神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)