文殊寺。さいたま市緑区三室にある天台宗寺院

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

文殊寺。氷川女体神社のもと別当、関東三十三観音霊場

文殊寺の概要

天台宗寺院の文殊寺は、大智山覚母院と号します。文殊寺は、もと氷川女体神社の境内にあり、氷川女体神社の別当を勤め、御朱印地領50石のうち6石4斗を拝領していたといいます。明治初年、同村の薬王寺(喜見山長樹院)と合寺、当地へ移転したといいます。関東三十三観音霊場14番霊場、武州足立百不動尊霊場17番、武蔵東向寅薬師足立十二札所(北側)1番です。

文殊寺
文殊寺の概要
山号 大智山
院号 覚母院
寺号 文殊寺
住所 さいたま市緑区三室1956
宗派 天台宗
本尊 文殊菩薩
葬儀・墓地 文殊寺会館
備考 関東三十三観音霊場14番霊場



文殊寺の縁起

文殊寺は、もと氷川女体神社の境内にあり、氷川女体神社の別当を勤め、御朱印地領50石のうち6石4斗を拝領していたといいます。明治初年、同村の薬王寺(喜見山長樹院)と合寺、当地へ移転したといいます。

新編武蔵風土記稿による文殊寺の縁起

三室村女體社)別當文殊院
當社を守る社僧居れり天台宗、中尾村吉祥寺の門徒、本尊彌陀を安す、御朱印の内五石を配當せらる。
文殊堂。持統天皇御寄附ありしと云、大般若経を収む書寫及印行せしも交り、部畉も雑亂せり、古物なる事は疑ふべくもあらねど、御寄附のものと云據はなし、末に女體大明神金剛佛子性尊、元弘三年書寫畢野本丹後守、天文二十三年本願法印玉林坊筆者大牧左京仙波住僧、弘治三年本願主仙波玉林坊とあり、野本氏は武蔵七黨の枝流にて、【東鑑】にも野本能登守之時、同次郎行時など見ゆ、又成田氏家士の内野本右近など云るも見ゆれば、丹後守は是等の類族なるべきか、猶比企郡野本村の條合せ見るべし、又玉林坊・仙波玉林坊等の名あり、今隣村中尾村修験玉林院あり、ここには小田原北條氏に附屬せし、笠原越前守の文書ありて、舊き修験なれば、彼等が先祖なるも知べからず、大牧左京は近村大牧村をもて在名とせしなるべし、そはとも角も舊き経文なることは論なし。(新編武蔵風土記稿より)

埼玉県掲示による文殊寺の縁起

文殊寺は、天台宗の寺院で大智山覚母院といい、古くは氷川女体神社の境内にあって、同社社領50石のうち6石4斗を拝受され、住職は別当職を勤めていた。 寺伝によると、30坪の本堂と文殊堂があり、大般若経(玄奨三蔵訳の経典で六百巻)を収蔵し、毎年正月8日、天下泰平・五穀豊穣の転読会が催されていたという。 明治初年、神仏混淆禁止令により、同村の薬王寺(喜見山長樹院)と合寺して、現在地に移った。本尊の文殊菩薩は、学問上達の仏様として広い信仰を集めている。 また、本堂の欄間に掲げられている三面の大絵馬は、市指定有形文化財になっている。(埼玉県掲示より)

合寺した薬王寺について

(三室村)薬王寺
(天台宗、中尾村吉祥寺の門徒)喜見山と號す、本尊弥陀(新編武蔵風土記稿より)


文殊寺所蔵の文化財

  • 文殊寺絵馬 三面(さいたま市指定文化財)

文殊寺絵馬 三面

文政13年(1842)文殊菩薩図。元治2年(1865)「桜井の別れ」武笠松渓写、及び文化10年(1813)伊予大三島神社の鳥居額を描いたもの(蕨 高橋新五郎画)。何れも縦1m以上、横1.5~1.8m。(さいたま市教育委員会)

文殊寺の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」