三芳野神社。川越市郭町の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

三芳野神社。河越城内鎮守の天神社

三芳野神社の概要

三芳野神社は、川越市郭町にある三芳野神社です。三芳野神社は、大同年間に大宮氷川神社を勧請して創建、その後北野天神社を勧請したと伝えられ、太田道真・道灌父子が河越城築城の際に、当社と仙波日枝神社を城内鎮守とし、同様の鬼門除け鎮守を江戸城にも適用(平河天満宮山王日枝神社)したといいます。
徳川家康より社領20石の御朱印状を受領、江戸幕府の厚い庇護を受け、当社本殿は、江戸城二の丸東照宮を移築したものです。明治維新後は、城内に鎮座していた八幡宮を合祀して、三芳野神社と改称、明治六年には県社に列格していました。

三芳野神社
三芳野神社の概要
社号 三芳野神社
祭神 素戔鳴尊・奇稲田姫命
相殿 (配祀)菅原道真公、(合祀)誉田別命
境内社 大国主神社、蛭子神社、稲荷神社
祭日 -
住所 川越市郭町2-25-11
備考 旧県社



三芳野神社の由緒

三芳野神社は、大同年間に大宮氷川神社を勧請して創建、その後北野天神社を勧請したと伝えられ、太田道真・道灌父子が河越城築城の際に、当社と仙波日枝神社を城内鎮守とし、同様の鬼門除け鎮守を江戸城にも適用(平河天満宮山王日枝神社)したといいます。
徳川家康より社領20石の御朱印状を受領、江戸幕府の厚い庇護を受け、当社本殿は、江戸城二の丸東照宮を移築したものです。明治維新後は、城内に鎮座していた八幡宮を合祀して、三芳野神社と改称、明治六年には県社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による三芳野神社の由緒

(河越城并城下町)天神社
本丸の東の方巴堀の外にあり、三芳野天神と號す、社領二十石の御朱印を賜はる、縁起を閲に足立郡大宮町の氷川大明神は大社にて、國中の鎮守なれば爰に勧請すと、又伝中古神託ありて法華の法味に満足するゆへ、浄土に往来して極楽自在なりとありけるゆへに、本地堂に観音を本尊として地蔵を脇立とす、後に示現の告ありて十一面観音を本體とす、不動毘沙門を脇立とす、又深秘の神體なりとて古き銅の扇あり、其圖は左に出せり、又いつの頃か北野天満天神を勧請して、此社内に祝ひこめり、これは北野の本地と同體なれば、かくの如く相殿として祀りしならん、
大猷院殿の御時しばしば此社へわたらせ賜ひ、其次をもて御放鷹又は騎射など御覧ありしとなり、又その頃の事にや、江戸西丸御普請ありしとき、六月の初より八月の末まで御座を當城へうつされけり、其頃當社は初雁を閲の名所にて、年ごとに雁の来ることその時をがへずと聞し召され、人を三所にわかちをかれて、終夜きかしめられけるに、例のごとく初雁北の方より飛来り、三聲おとづれて南の方へゆきしと言上しければ、奇特の事なりと仰せられけるとぞ、
抑爰を雁の閲の名所と云事は、『伊勢物語』業平中将東國へ下りけるとき武蔵國入間郡三芳野の里に来りて、ある女にあはんと云ける、女の母なん藤原なりけるによりて、中将にゆるさんとて歌を讀てやる、三芳野のたのむの雁もひたふるに、君が方にぞよると鳴なる、中将のかへしに、わが方によると鳴なる三芳野の、たのむの雁をいつかわすれん、といへるによりて、當所を雁の名所といへるなり。
當社の宮居はもとわづかなるつくりなりしが、大猷院殿御遊歴ののち、酒井讃岐守忠勝に仰せて、造營の事をはからせ給ふ、よりて寛永元年二月の中頃より事始ありて、同き十一月下旬に至て功を竣れり、ここに於て同二年二月廿四日遷宮の式行はる、導師は大僧正天海なりと云。
以上の説は民部卿法印道春が撰ぶ所の縁起にみえたり、別當はすなはち高松院なり。 (新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による三芳野神社の由緒

三芳野神社<川越市郭町二-二五-一一(川越字郭町)>
川越は武蔵野台地の東北端に位置し、荒川低地に突き出した高台のため、古くから要害の地とされ城郭が築かれてきた。特に江戸幕府は江戸城に最も近い出城として重要視し、松平伊豆守信綱は寛永一五年から慶安年間にかけて城郭の拡張整備並びに城下町の町割りを進めた。
城は古くから初雁城ともよばれ、当社は三芳野天神と号して域内本丸近く天神曲輪に鎮座していた。当社の由緒を伝えるものに慶安二年松平信綱の奉納による『三芳野天神縁起』があり、九つの物語を絵に表している。これを要約すると次のようになる。
(一)川越の地名は、昔鷲宮明神が太刀と琴を持った男女二神を伴って、川を渡られたことに由来する。(二)「伊勢物語に載る三芳野の歌は、当所の初雁の杉を詠んだものである。(三)・(四)時代が下るにつれて、祭神も種々に変化し、奇瑞を表し、一般の信仰も高まって来る。(五)年代は不詳であるが北野の天神も合祀する。(六)・(七)・(八)当地は放鷹や騎射に適していたため、たびたび将軍が訪れ、当社への参詣もあり、初雁の物語を聞き、大変奇特だとして、寛永元年には酒井讃岐守に命じて当社を再興させる。寛永二年には、天海僧正が導師となって遷宮式を行う。(九)松平伊豆守が城主の時、神田を寄進する。
明治中ごろの祀官熊谷直就は、この慶安縁起を基に、中世の記録類『北条五代記』『永享記』、近くは社記・神宝などの史料を駆使し“熊谷縁起” ともいえるものを、編年体で著している。
この文書によると大同年中の建立後、長徳元年武蔵国司菅原修成が北野天神を勧請(一説には長禄元年太田道灌勧請とある)、正平二四年新田左衛門尉泰氏が三芳野出陣のおり戦勝を祈願し銅製五本骨の扇を奉納する。この銅扇は『永享記』に「御神体は、銅の五本骨の扇を納め奉り、御宝前の厳飾にも、みな扇を絵に書たり」とある。
長禄元年太田道真・道灌親子は古河公方方への防衛線の一環として川越城の縄張りを行い、同時に当社を城内の守護とし、別当広福寺を建て社の管理を任せ、天神を相殿に祀ったという。なお文明三年江戸城築城にあたり、道灌は喜多院鎮守日吉山王社と当社を江戸に分霊し、山王社は赤坂に、天神は平河にそれぞれ鎮祭したと伝えている。
川越城主は時の流れに従い更迭されるが、当社は代々崇敬されて連歌・和歌の奉納もあり、また社領等の奉納により社頭の隆盛をみる。天正一八年北条氏の後を関東に入国した徳川家康は川越城を重視し重臣酒井重忠を城主とし当社へ二十石の朱印状を与えている。
元和九年徳川家光は神鏡を奉納すると共に城主酒井讃岐守忠勝に社殿再営を命じ、二年後の寛永二年二月二四日喜多院天海僧正が導師となり遷宮祭を行う。以後幕府直轄の神社として庇護され、寛永二〇年広福寺は三芳野山高松院広福寺と改称、喜多院の末となり、明治二年廃寺になるまで別当職にあった。
明暦二年川越城拡張に伴い、江戸城二の丸東照宮空宮を当社から南の田郭門外に移築、天神外宮を造営し一般の参拝を許した。
明暦以後も寛文一一年から弘化四年の大修復に至るまで一四回の修理が行われる。当社が今日の姿となったのは明暦二年の修営によると伝え、社殿は権現造りの形を取り、現在、県指定文化財となっている。
寛永二年以来幕府の庇護を受けてきた当社は大政奉還、廃藩置県等の煽りを受けて後ろ盾を失い、城内建造物も明治四年ごろから順次取り壊しが始まり、別当高松院も廃され、当社と共に城内に鎮座していた八幡宮も当社へ合祀し、社名も「三芳野神社」と改称し、明治四年郷社となり二年後には県社となる。この段階で主祭神は素戔鳴尊・奇稲田姫命、配祀神に菅原道真公、合祀神を誉田別命と定められる。
また、川越市西方的場にも三芳野天神が祀られている。この社は的場山法城寺の域内にあり、寺縁起によると、寺は三芳野天神・若宮八幡の別当を務め正観音を安置し、三芳野塚の麓にある的場は本来三芳野と呼ばれて三芳野塚、三芳野池と呼ぶ名が残り『伊勢物語』にいう三芳野はこの地であると記す。『風土記稿』には「境内にて謂ゆる三芳野天神是なり、此神体を中頃今の川越城中へ移す」とある。『川越歴史小話』は「的場の地が三芳野の里をさし、平安末期三芳野塚上に天神を勧請三芳野天神と称した。中世、太田道灌は川越城築城に当り域内天神社を移す一方、的場には渡唐天神の神体が祀られた」としている。(「埼玉の神社」より)


三芳野神社所蔵の文化財

  • 三芳野神社(川越市指定史跡)
  • 三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社付明暦二年の棟札(埼玉県指定文化財)

三芳野神社

三芳野神社は、平安時代の初期に成立したと伝えられ、川越城内の天神曲輪に建てられている。この為、「お城の天神さま」として親しまれている。この天神さまにお参りするには、川越城の南大手門より入り、田郭門をとおり、富士見櫓を左手に見、さらに天神門をくぐり、東に向う小道を進み、三芳野神社に直進する道をとおってお参りしていた。
この細い参道が、童唄「通りゃんせ」の歌詞の発生の地であるといわれ、現在でも静かな環境を保持しており、伝説の豊かな地である。
なお、参道は、江戸時代より若干変化している。(川越市教育委員会掲示より)

三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社付明暦二年の棟札

平安時代のはじめ大同年間(八〇六~八一〇)の創建と伝え、三芳野十八郷の惣社として崇敬をあつめました。太田道灌は川越城築城にあたって当社を鎮守とし、江戸時代以降は徳川幕府直営の社として庇護を受けました。
寛永元年(一六二四)幕府の命をうけて川越城主酒井忠勝が奉行となり再興に着手、幕府棟梁鈴木近江守長次が造営にあたりました。その後、明暦二年(一六五六)川越城主松平伊豆守信綱が奉行となり、幕府棟梁木原義久が改修を加えました。社殿の屋根はこけら葺でしたが、弘化四年(一八四八)幕府棟梁甲良若狭により瓦葺に改められ、さらに大正十一年銅板葺に改められました。
三芳野神社社殿は本殿、幣殿、拝殿からなる権現造で、屋根はこけら葺形の銅板葺です。外部は朱漆塗を基調とし、内部は軸部を朱漆塗、建具と天井を黒漆塗とします。
本殿は正面三間、側面二間の入母屋造で、四周に縁と高欄をまわし、正面に木階をもうけ、全面は幣殿に接続します。身舎内部は内陣外陣に分割し、内陣正面の柱間三間に板唐戸、外陣正面は中央間に板唐戸、両脇間に蔀戸を装置します。組物は出組で、幣殿に面した正面だけ出三斗とします。中備は極彩色を施した蟇股です。
幣殿は正面一間、側面二間の両下造で、背面は本殿、全面は拝殿に接続します。組物は出三斗で、中備は外部が蟇股、内部が間斗束になっています。内部は拭板敷に小組格天井です。
拝殿は正面三間、側面二間の入母屋造で、背面は幣殿に接続します。三方に縁高欄をまわし、背面柱筋に脇障子をたて、正面に一間の向拝をもうけます。組物は出三斗で、中備は外部が蟇股、内部が間斗束です。内部は拭板敷に小組格天井です。向拝は大面を取った角柱を陸梁形の頭貫でつないで、両端に獅子鼻を付け、連三斗を組んで中備に蟇股を飾ります。裏側には花木を篭彫した手挟を飾ります。
三芳野神社社伝の造営経過はいささか複雑です。
寛永元年(一六二四)の造営は、慶安二年(一六四九)松平信綱が奉納した「三芳野天神縁起絵巻」に詳細に記されていますが、そこに描かれた社殿は、流造の本殿と入母屋造の拝殿のみで幣殿は存在せず、現社殿とは大きく異なっています。
平成元年から平成四年にかけて実施された解体修理の報告書『三芳野神社社殿修理工事報告書』によれば、蟇股と各部取合わせを調査した結果、本殿・幣殿・拝殿の計二十三個の蟇股はすべて同形式ですが、当初からのものではなく、正面より押込み、斜め釘打ちで羽目板に取り付けられた後補の蟇股であることが判明しました。また、痕跡から、拝殿には寛永元年の造立当初より蟇股が存在していましたが(ただし現在の蟇股とは異なる)、本殿は蟇股の無い建築であったことも明らかになりました。現在の蟇股は、社殿全体を同一体裁に整えるために、新たに作製し取り付けたものと考えられます。また、本殿と幣殿、幣殿と拝殿の取合わせでおさまりが不自然な所も数カ所指摘されています。
以上を勘案すれば、現社殿にみる権現造は、寛永建立当初からのものではなく、修造時に幣殿を増設して形成されたもので、さらに、寛永建立当初の本殿と、現本殿は本来別の建築と考えられます。
明暦二年の修造時には、江戸城二の丸東照宮が移築され、その幣殿と拝殿が三芳野神社の外宮(天神外宮)となり、明治五年に氷川神社境内(宮下町)に移され、八坂神社社殿として現存しています。確証はありませんが、現在の三芳野神社本殿は江戸城二の丸東照宮の本殿であり、明暦二年に移築され大改修を受け、幣殿を増設し、本殿と拝殿を連結して現在見るような権現造社殿となったと推定されます。
蛭子社本殿と大黒社本殿は、拝殿の前方、参道に面し向かいあって鎮座します。拝殿から見て左が蛭子社、右が大黒社です。両社は同寸法、同形式で、拝殿前に一対となって配置され社格を高めています。
朱塗の一間社流造、見世棚造で、屋根はこけら葺形の銅板葺きとします。蛭子社本殿と大黒社本殿は、ほとんど装飾のない簡素な建築で、身舎組物は舟肘木で中備はなく、妻飾は虹梁豕扠首です。庇も柱上に舟肘木を置くだけで、いたって簡素なつくりになっています。明暦二年(一六五六)の「三芳野天神別当乗海覚書」に「末社両宇」とあるのが相当すると思われ、元禄十年(一六九八)の「元禄十一年川越市街屋敷社寺記」に「末社貮ヶ所共、表四尺四寸、奥七尺九寸」とあって、規模が記されています。しかし、現社殿は正面四尺、側面は身舎と庇をあわせて六尺四寸五分であり、元禄の記録と一致しません。蛭子社に掲げられた額の背面に享保十九年(一七三四)の年紀があるので、その頃再建されたものと思われます。(川越市教育委員会掲示より)

三芳野神社の周辺図


参考資料