川越氷川神社。川越市宮下町の神社

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川越氷川神社。ユネスコ無形文化遺産の川越氷川祭

川越氷川神社の概要

川越氷川神社は、川越市宮下町にある氷川神社です。川越氷川神社は、欽明天皇二年(540)に大宮氷川神社を勧請して分祀奉斎したとされます。太田道真・道灌父子により川越城が築城されると、川越城の武士たちの崇敬を集め、川越の惣社として尊崇を集めていました。江戸期には、川越城主松平信綱が、慶安元年(1648)神輿や獅子頭などを寄進し、祭りを行うように命じたことから、川越氷川祭の山車行事が始められ、また神主は登城して城主に目通りの上賀儀を申し述べることを恒例としていたといいます。明治維新後の社格制定に際して明治6年に郷社に列格、大正12年には県社に昇格していました。10月第3土・日曜日に開催される当社の祭礼は、川越祭として著名で、国重要無形民俗文化財に指定、ユネスコ無形文化遺産に登録されています。

川越氷川神社
川越氷川神社の概要
社号 氷川神社
祭神 素盞嗚尊・寄稲田姫命・大己貴命・脚摩乳神・手摩乳神
相殿 -
境内社 八坂神社、護国神社、子ノ権現社、稲荷神社、春日神社、雷電神社、三峰神社、蛇霊神社など
祭日 例大祭10月14/15日
住所 川越市宮下町2-11-3
備考 旧県社



川越氷川神社の由緒

川越氷川神社は、欽明天皇二年(540)に大宮氷川神社を勧請して分祀奉斎したとされます。太田道真・道灌父子により川越城が築城されると、川越城の武士たちの崇敬を集め、川越の惣社として尊崇を集めていました。江戸期には、川越城主松平信綱が、慶安元年(1648)神輿や獅子頭などを寄進し、祭りを行うように命じたことから、川越氷川祭の山車行事が始められ、また神主は登城して城主に目通りの上賀儀を申し述べることを恒例としていたといいます。明治維新後の社格制定に際して明治6年に郷社に列格、大正12年には県社に昇格していました。10月第3土・日曜日に開催される当社の祭礼は、川越祭として著名で、国重要無形民俗文化財に指定、ユネスコ無形文化遺産に登録されています。

新編武蔵風土記稿による川越氷川神社の由緒

(宮ノ下)氷川社
祭神は五座素盞嗚尊・寄稲田姫命・大國主天神・脚摩乳神・手摩乳神今は手摩乳神を除きて四座なり、人皇三十代欽明天皇即位八年辛酉の秋、當社氷川を勧請すと云と、いかがはあるべき、例祭正月十五日、九月十五日行はる、中にも九月は十日より氏子のもの、よりつどひて頗るにぎはへり、昔は田楽・角力などを興行せしが、慶安元年より神輿をわたし同四年より萬度をいたし、又屋臺など云ものを大路をわたすとなり、元禄の後は彌さかりにして、上五町、下五町とわかち、きそひて種々の造物を出し、祭禮終りて十六日に至れば、各町々にて踊り舞ふことあり、これを俗に笠脱と云、これらの故事今に到るまでかならず、當社古より始終おとろへずして、神徳さかりなりしにや、昔太田道灌沙彌當社に在城せし頃、沙頭にまふでてよめる歌の詞書に、氷川の社に奉納の和歌をすすめられて、老らくの身をつみてこそ武蔵野々、草にいつまで残るしら雪
神輿蔵、神楽殿、供所
末社。天王社、三峰社、子権現社、天神社、八幡社、春日社、疱瘡神社、稲荷社、山王社、雷神社、人丸社。
神職山田伊織。吉田家の支配なり。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による川越氷川神社の由緒

氷川神社<川越市宮下町二-一一-三(川越字宮下町)>
当社は武蔵野台地の東北端、入間川及び荒川低地に半島状に突き出た川越支台上に鎮座している。現在、当地の東方に広がる低地の地下からは真菰や埋木などが発見され、往古、沼沢地であったことが知られる。また、当地は多くの古墳や住居址が散在するなど、古くから生活の場として開けた所でもある。なお、当社境内地から石剣が出土し現在神宝として秘蔵されている。
創建については、氾濫を繰り返し幾度も流れを変えて来た入間川を畏怖するとともに神聖視し、出雲の簸川にこれを見立て大宮の氷川神社より勧請したものと伝える。正徳年間の『氷川大明神縁起』には「人皇三十代天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)即位八年辛酉之秋」に「入間之河中与利異晃夜々照ル」とあり、これは「当国足立郡之氷川大明神之為霊光」と人々は恐れ畏み、一社を設けて年ごとの祭事を行い、ここを里宮と定めたと伝えている。
祭神は、素盞鳴尊・奇稲田姫尊・大己貴尊・手摩乳尊・脚摩乳尊の五柱である。神像は正徳年間町年寄榎木家より奉納された。
中世に入ると長禄元年当地の要害を利用して太田道真、道灌父子の手により川越城が築城された。以来、当社は川越城の武士たちに厚く崇敬されるところとなり、殊に、道灌は『永享記』によると江戸の津久戸明神を通して当社を尊崇し、『慕景集』に次の献詠がある。
老いらくの身をつみてこそ武蔵野の草にいつまで残るしら雪
天文六年、川越城をめぐって一北条氏と上杉氏の間で、川越合戦が行われたことが『河越軍記』に記されている。この軍記に、当時の氷川神社の信仰を知ることができる記事があり「ここに日川の明神として戌亥にあたれる社なり、則人民惣社にあがめて往詣する事さりもあへず」とある。これにより、当時すでに川越の総社であったことが知られる。
天正一八年、徳川家康関東移封以来川越城は江戸城の備えとして重要な位置を占め、歴代の城主も幕府の重職が当たり、また、これらの城主は川越の総社として当社を崇敬し、代替りごとに社参して太刀や白銀などを奉納した。
なお、毎年、元旦は奉幣の儀が行われ、神主は登城して城主に目通りの上賀儀を申し述べることを恒例としている。
社領については、文禄四年川越城主酒井与七郎忠利、慶長六年本多形部左衛門、寛永一八年老中松平伊豆守信綱、元禄元年松平信輝と次々に寄進状が発給され、社禄一五石二斗六升、社地四反三畝十歩は、歴代の城主に安堵されている。このほか、家中並びに町方氏子より寄進された水田一町五反八畝四歩を所有していた。
造営は社蔵の奉加帳によると、寛永五年酒井讃岐守忠勝本殿修覆、同六年拝殿再建、同一三年堀田加賀守正盛鳥居及び末社建立、また、元禄九年城主柳沢出羽守吉保は、社殿造営費三百二十六両余のうち不足金八十二両余を寄進し、家臣曾根権太夫をして社殿を造営させた。享保五年、秋元伊賀守喬房は、社殿の修理費八十三両余の内、三十五両余を寄進し大修理を行い、寛保元年には屋根を銅瓦葺きとした。
現本殿は、天保一三年城主松平大和守斉典が造営料三十五両余を寄進し、氏子醵出金二千二百五十両を得て嘉永二年に竣工した。規模は正面三間側面二間の入母屋造りに、一間の向拝を付け、正面千鳥破風軒唐破風となり、外回りの壁面は精緻な彫刻で飾られている。
摂末社は、元禄二年の『武蔵川越氷川神系図』によると、当時、牛頭天王社(現八坂神社)・人丸社・稲荷社二社の計四社が認められ、ほかの社はこれ以降に勧請されたものである。
牛頭天王社は、初め喜多町持ちの社で、同町小名宮元より当社境内に移されたものである。造営は、寛永一三年堀田加賀守正盛の時に再興、次いで元文四年喜多町中にて再建し、天井に竜が描かれている。この牛頭天王社を内殿とする現社殿は、寛永一四年、三代将軍家光が江戸城二ノ丸に建立した東照宮で、これが明暦二年、空宮となったので三芳野神社の外宮として城主松平伊豆守信綱が拝領し、下って、明治五年に当社境内に移築し、旧来の社殿を内陣に納めたものである。この社は数少ない貴重な江戸城内建造物の遺構である。
人丸社は、戦国時代に丹波の綾部から近江を経て移住した綾部家の遠祖柿本人麻呂を祀っている。社殿は、寛永年間に堀田正盛の手により修覆されたと伝え、更に宝暦二年には、川越在住の文人たちにより再建される。神像は吉野朝の歌人であり、彫刻家でもあった頓阿上人の作と伝える。また、宮形厨子は明治初期の工芸家柴田是真の作である。頓阿上人は、人麻呂像百体を刻んで住吉神社に奉納したといわれ、当社の神像はこの内の一体と伝える。文久二年、神像は盗難にあったが盗人は急に眼がくらんで動けず田の中にひれ伏したといい、危うく難を逃れた。祭典は、四月一八日が人丸忌に当たるとして、綾部一族が集まって氏神祭りを行う。
稲荷神社は、由緒不詳であるが、元禄時代の石製眷属像(狐)一対を伝え、祭典は二月初午に行っている。
(中略)
明治六年には郷社となり、同四一年神饌幣帛料供進社に指定され、大正一二年には県社に昇格した。 (「埼玉の神社」より)


川越氷川神社所蔵の文化財

  • 川越氷川祭の山車行事(ユネスコ登録無形文化遺産・国指定重要無形民俗文化財)
  • 氷川神社本殿(埼玉県指定文化財)
  • 八坂神社社殿(埼玉県指定文化財)
  • 川越氷川神社例大祭(川越祭)

氷川神社本殿

毎年10月の氷川神社神幸祭に合わせて行われる祭礼行事である。
神輿を中心とする神幸祭の行列が氏子町内を巡行し、各町内の山車が供奉する。だしは幕や人形で絢爛豪華に飾り立てられ、お囃子と舞を披露する。だしの曳行は2日間にわたって行われ、他の山車と行き合うと、お互いの山車を向け合い祭り囃子を競演する「曳っかわせ」が行われ、祭りを盛り上げる。
本来の祭礼日は10月14・15日で、14日が例大祭、15日が神幸祭である。
この行事の始まりは、江戸時代初期にさかのぼる。慶安元年(1648)、川越城主であった松平信綱が城下町の鎮守である氷川神社に神輿や獅子頭などを寄進し、祭りを行うように命じた。これにより、慶安4年(1651)から神輿が巡行する祭り(神幸祭)となった。この神輿の巡行に合わせて、町人が住む十ヶ町(喜多町・高澤町・本町・南町・江戸町・志多町・鍛冶町・志義町・上松江町)が、踊り屋台などの練り物でお供をするようになった。
江戸への物流拠点として繁栄した川越には、江戸から様々な文化が入り、祭りも江戸の天下祭(山王祭と神田祭)の影響を強く受けて発展した。現在みられる形の山車が川越で曳かれるようになったのは江戸時代末期のことで、前方に囃子台、後方に鉾と呼ばれる部分を持ち、鉾の上に舞楽や能、神話や歴史の登場人物の人形が乗せられている。鉾は上下段に分かれ、上段の鉾を下げて電線などの障害物を避けることができる。元々は江戸城の城門をくぐるための仕組みとされている。また、各町会所の囃子農法や曳っかわせに、山車の向きを変えずに囃子台だけを相手に向ける回り舞台の仕組みを持つ山車も多い。
山車は各町で所有しており、山車の組み立てや飾り付けなどの祭りの準備も町内で協力して行われている。祭りの当日は、宰領(運行責任者)の指示のもと山車が曳き出され、金棒を持った露払いを先頭に、手古舞姿の子どもたちや山車の曳きてが続く。他町内に山車が入るときは先触れがあいさつに行く。
現在は、全市的なまつり「川越まつり」としても発展し、10月第3土・日曜日(14日が土曜日の場合は14・15日)に開催されている。
山車や曳山、屋台が巡行して地域社会の安泰や災厄除けを祈願する「山・鉾・屋台行事」の1つであり、日本の都市祭礼の変遷を知る上でも重要な行事である。(川越市教育委員会掲示より)

氷川神社本殿

川越の総鎮守である氷川神社の歴史は古く、その創建は欽明天皇の即位二年(五四〇年)九月十五日武蔵国足立郡氷川神社を分祀奉斎したと伝える。祭神は素戔嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命・脚摩乳命・手摩乳命の五柱という。
長禄元年太田道真・道灌が川越城を築城するにおよび、道灌は当社を厚く崇敬し、
老いらくの身をつみてこそ武蔵野の
草にいつまで残る白雪
との和歌を奉納している。江戸時代においても、川越城主代々の崇敬篤く、毎年元旦には奉幣の儀が行われ、社家は登城城主目通りの上年賀を言上している。
本殿は、川越城主松平斉典を筆頭として、同社氏子の寄進によって天保十三年(一八四二年)に起工され五ヶ年の歳月を要して、建立されたものである。
間口十三尺五寸(四・〇八m)・奥行八尺二寸(二・四八m)の三間社・入母屋造で前面に千鳥破風及び軒唐破風の向拝を付した銅瓦ぶきの小建築であるが、彫刻がすばらしく、当代の名工嶋村源蔵と飯田岩次郎が技を競っている。構造材の見え掛りは五〇種におよぶ地彫が施され、その間江戸彫と称す精巧な彫刻を充填し、十ヶ町の山車から取材した彫刻や、浮世絵の影響をうけた波は豪壮華麗である。(埼玉県・川越市教育委員会掲示より)

八坂神社社殿

八坂神社社殿は寛永十四年(一六三七)に江戸城二の丸の東照宮として建立されたが、後に空宮となったので明暦二年(一六五六)川越城内三芳野神社の外宮として移築された。さらに明治五年(一八七二)現氷川神社の境内に移され八坂神社社殿となった。この社殿平面は凸字型であって、屋根は銅版本葺入母屋造、建坪六坪八合(二二・四八㎡)、拝殿の部分は桁行二間、梁間三間と細長く突出た平面である。建立の当初は相当の規模であったものを明暦の移築の際縮小したものとおもわれる。内陣格天井の天井板にある草花の絵は江戸初期のものであり、各斗栱などよく当初の木割を示している。江戸城内の宗教的建造物の遺構としては、全国唯一のものとして、その歴史的価値が高く評価されている。(埼玉県・川越市教育委員会掲示より)

川越氷川神社例大祭

川越氷川神社の例大祭は、毎年十月十四・十五日の二日間行われる。十数台の山車が市内を練り歩き、川越氷川祭として広く知られているものである。
この祭は、慶安元年(一六四八)川越城主松平信綱が、神輿等を寄進したことに始まる。元禄十一年(一六九八)に最初の踊屋台が出てから年々盛んとなり、文政九年(一八二六)の祭から意識的に江戸の天下祭の形式をとり入れ、各町ごとに笠鉾、造り物、練子等が出るようになった。天保十五年(一八四四)には一本柱の山車に統一されたが、文久二年(一八六二)にはもう二重鉾の山車が出現している。明治以後は山車と踊屋台が中心となり、大火以後は山車だけの祭になった。しかし二重鉾の山車はいよいよ豪華絢爛となり、廻り舞台の工夫もなされた。山車の構造はもとより人形は著名な江戸の人形師の作で、囃子は神田囃子と、すべて天下祭にみられた江戸文化の伝統を残していることがこの祭の特徴で、最近は全市をあげての観光行事になっている。(埼玉県掲示より)

川越氷川神社の周辺図