拂田稲荷神社。荒廃している田畑を切り開いて社地を造成
拂田稲荷神社の概要
拂田稲荷神社は、東松山市高坂にある神社です。拂田稲荷神社は、戦国時代の混乱で荒廃した当地を見かねた僧誠誉が、村民に呼びかけて天文3年(1534)に創建、田畑が荒廃している所を切り開いて社地を作ったことから拂田稲荷と称されるようになったといいます。
社号 | 拂田稲荷神社 |
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祭神 | 倉稲魂命 |
相殿 | - |
境内社 | 子持稲荷社 |
祭日 | - |
住所 | 東松山市高坂1232-1 |
備考 | - |
拂田稲荷神社の由緒
拂田稲荷神社は、戦国時代の混乱で荒廃した当地を見かねた僧誠誉が、村民に呼びかけて天文3年(1534)に創建、田畑が荒廃している所を切り開いて社地を作ったことから拂田稲荷と称されるようになったといいます。
新編武蔵風土記稿による拂田稲荷神社の由緒
(高坂村)
稲荷社
牛頭天王社
以上二社、長松寺持(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による拂田稲荷神社の由緒
拂田稲荷神社<東松山市高坂一二三二(高坂字稲荷林)>
応仁年間(一四六七-六九)の後、戦乱が相次ぎ、田畑はすっかり荒廃してしまい、民衆は苦難にあえいでいた。そのころ、当地を訪れた誠誉という僧が、この惨状を見るに見兼ねて、住民に五穀成就と万民安堵の守護神として京都の伏見稲荷大社から倉稲魂命の神霊を勧請することを勧めた。これが当社の創建であり、社記によれば、天文三年(一五三四)のことであったとされている。
ちなみに、当社の社号の「拂田」とは、人や場所の名前などではなく、田畑が荒廃している所を切り開いて社地を作ったため「田を拂って作った」という意味であるという。このように、社名の由来にも、戦乱による荒廃からの復興を願う当時の人々の心情が込められているように感じられる。
その後、住民や領主の努力も実って、高坂は再び活気を取り戻し、当社は村鎮守の八剣明神社(現高坂神社)と共に高坂の人々から厚く信仰された。とりわけ、文化文政のころ(一八〇四-三〇)には霊験が殊に著しく、境内及び正面参道が拡張され、石段・石灯籠などが奉献され、更に文久二年(一八六二)には社殿も改築された。江戸時代を通じて、当社は、地内にある浄土宗の長松寺の持ちであったが、神仏分離によってその管理を離れ、代わって澤田家が神職として奉仕するようになった。(「埼玉の神社」より)
拂田稲荷神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)