高坂神社。東松山市高坂の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

高坂神社。旧八剣明神社、高坂村の鎮守

高坂神社の概要

高坂神社は、東松山市高坂にある神社です。高坂神社は、大同年間(806-810)坂上田村麻呂が当地を通行の際、日本武尊が東夷征伐の折にここに陣地を置いたという故事に因んで社を建立、八剣明神社と号したといいます。源頼朝が奥州征討の折には「猿田彦の面」を奉納したといい、室町時代には当地の領主高坂刑部が祈願所とした他、江戸初期に町奉行を務めた旗本加賀爪氏も守護神として崇敬、高坂村の鎮守社でした。明治42年境内末社の日枝神社・疱瘡神社、無格社天神社及びその境内末社の雷神社、無格社八雲神社を合祀、高坂神社と改めたといいます。

高坂神社
高坂神社の概要
社号 高坂神社
祭神 日本武尊
合祀 -
摂社 豊稔社、豊受姫命、大年神、御年神
祭日 例祭日4月15日、夏祭り
住所 東松山市高坂1061
備考 -



高坂神社の由緒

高坂神社は、大同年間(806-810)坂上田村麻呂が当地を通行の際、日本武尊が東夷征伐の折にここに陣地を置いたという故事に因んで社を建立、八剣明神社と号したといいます。源頼朝が奥州征討の折には「猿田彦の面」を奉納したといい、室町時代には当地の領主高坂刑部が祈願所とした他、江戸初期に町奉行を務めた旗本加賀爪氏も守護神として崇敬、高坂村の鎮守社でした。明治42年境内末社の日枝神社・疱瘡神社、無格社天神社及びその境内末社の雷神社、無格社八雲神社を合祀、高坂神社と改めたといいます。

新編武蔵風土記稿による高坂神社の由緒

(高坂村)
八剱明神社
村の鎮守なり、祭神は日本武ノ尊と云、神主大嶋河内京都吉田家の配下。
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稲荷社
牛頭天王社
以上二社長松寺持。 (新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による高坂神社の由緒

高坂神社<東松山市高坂一〇六一(高坂字三番町)>
鎌倉から武蔵の府中を経て上州(現群馬県)に至る古道(鎌倉街道上つ道)は、登り降りを繰り返しながら、起伏の多い比企丘陵を縦断している。高坂は、その道沿いにあったことから、比較的早くから開かれ、その地名は、文字通り高い坂が地内にあることに由来する。
当社は、この高坂の鎮守として祀られ、大同年間(八〇六-一〇)、坂上田村麻呂がこの地を通った時、日本武尊が東夷征伐の折にここに陣地を置いたという故事にちなみ、尊の武徳を追慕してその旧跡に社を建立し八剣明神社と号したことに始まるという。当社の裏(北側)の山林には、今なおこんこんと清水の湧く泉があるが、この泉には日本武尊が東夷征伐に臨んで身を清めたという伝説が残っており、日本武尊お祓いの清水」と呼ばれている。また、地内には古墳も多く、当社の境内にも剣前古墳と呼ばれる後期古墳がある。
このような伝説から、武士が華々しく歴史の舞台に登場する時代になると、当社は武の神として厚く信仰されるようになったものと思われる。現在も神宝として大切に保管されている春日の作と伝えられている猿田彦の面は、源頼朝が奥州征討の折に、当社に祈願したところ霊験あって戦勝を得たことを感謝して奉納したものであるという。更に観応のころ(一三五〇-五二)には、高坂城主(実際には城というよりも陣屋であったと思われる)であった高坂刑部の祈願所となり、江戸時代には、天和元年(一六八一)までこの地を領した加賀爪氏も守護神として崇敬した。高坂刑部という人物については、詳しいことは知られていないが、『風土記稿』などに小田原北条氏の臣と伝えられ、その館跡(県重要遺跡、築造年代不明)は今も地内の高済寺境内に残っている。また加賀爪氏は江戸初期に町奉行を務めた旗本で、高済寺には甲斐守加賀爪政尚はじめその累代の墓(県旧跡)がある。
『風土記稿』に「八剣明神社 村の鎮守なり、祭神は日本武ノ尊と云、神主大島河内京都吉田家の配下」とあるように、江戸時代には、「宮ノ家」と呼ばれている地内の大島家が代々神勤していた。明治に入ると、大島家は神勤をやめ、その後を澤田家が引き継ぎ、祐治・辰良・昌生と三代にわたり、社掌・宮司を務めている。また、大島家が神祇管領から受けた神道裁許状などが、寛永六年(一六二九)から元治元年(一八六四)まで計一一通現存しており、江戸時代全体を通じ、大島家が神勤していた様子がうかがえる。
当社が、高坂神社と改称したのは、明治四十二年二月十九日のことである。その契機となったのは、政府の合祀政策による神社統合で、同年二月十日に境内末社の日枝神社・疱瘡神社、同字無格社天神社及びその境内末社の雷神社、字二番町無格社八雲神社が、高坂の村社である当社に合祀されている。(「埼玉の神社」より)


高坂神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)