妙福寺|大田区南千束にある日蓮宗寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

星頂山妙福寺|日蓮上人が老松に法衣をかけた護松堂・御松庵

妙福寺の概要

日蓮宗寺院の妙福寺は、星頂山と号します。妙福寺は、持法院日慈(寛永6年1629年寂)が日本橋馬喰町に創建、明暦の大火(1657)により浅草永住町へ移転、関東大震災で被災し昭和2年(1927)当地にあった御松庵と合併して移転したといいます。御松庵は、日蓮上人が池上宗仲の館(池上本門寺)へ向かう途中に洗足池で休憩、老松に法衣をかけて、池の水で手足を洗ったことから護松堂・御松庵として創始したといいます。

妙福寺
妙福寺の概要
山号 星頂山
院号 -
寺号 妙福寺
住所 大田区南千束2-2-7
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



妙福寺の縁起

妙福寺は、持法院日慈(寛永6年1629年寂)が日本橋馬喰町に創建、明暦の大火(1657)により浅草永住町へ移転、関東大震災で被災し昭和2年(1927)当地にあった御松庵と合併して移転したといいます。御松庵は、日蓮上人が池上宗仲の館(池上本門寺)へ向かう途中に洗足池で休憩、老松に法衣をかけて、池の水で手足を洗ったことから護松堂・御松庵として創始したといいます。

「大田区の寺院」による妙福寺の縁起

当寺は千束池の池畔にある御松庵に、浅草永住町(台東区元浅草)にあった妙福寺が移ってきて合併した寺である。
御松庵は日蓮に関する伝説がもとになって成立した草庵で、日蓮が弘安5年(1282)に身延山(山梨県)から常陸国の温泉に向う途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館に立寄るため、千束の池にさしかかったとき、池のほとりで休息をし、かたわらの老松に法衣をかけて、池の水で手足を洗った。このとき水中から七面天女が出現した。身延七面山頂の湖水にいて、日蓮が身延在山中守護していたが、日蓮が旅立ちをしたのでこれについて道中守護をしてきた旨を告げ、日蓮の読経を受けて消え失せた。その後、このことを記念して、土地の人達が、堂宇を立てて七面天女を安置したのが、御松庵のはじまりであるという。法衣をかけた袈裟掛の松を護る護松堂が建てられ、この堂名から御松庵と呼ばれるようになった。
また日蓮が足を洗ったので、この池を洗足池と呼ぶようになったといわれている。
妙福寺は持法院日慈(寛永6年示寂)が、日本橋馬喰町(中央区馬喰町)に草創した寺であるが、創立の年代は明らかでない。明暦3年(1657)1月18日の大火に罹災し、堂宇は灰燼に帰した。のち浅草永住町に換地を受けて移転し、堂宇を再建した。明治41年(1908)に墓地のみを堀之内(杉並区)に移した。
大正12年(1923)9月1日の関東大震災で、永住町の堂宇は再び焼失した。大正13年(1924)5月に仮堂宇が建設されたが、昭和2年(1927)2月に現在地に移転することがきめられ、同年12月に移転、合併の許可を受け、今日に至っている。(「大田区の寺院」より)

御府内寺社備考による妙福寺の縁起

甲斐国身延山久遠寺末 浅草新寺町
星項山妙福寺(境内拝領地六百八十五坪)
文禄元壬辰年建立仕候。
開基持法院日慈と申僧、文禄元壬辰年開基仕候。当住職迠十八代相成。日慈生国は不知、寛永六己巳年七月廿五日遷化。
本堂。本尊三宝祖師、四菩薩木立像(長一尺)、日蓮像(木座像長二尺五寸五分)、文殊 普賢木座像(長五寸四分)、不動明王木座像(長六寸五分)、愛染明王木座像(長七寸二分)、四天王木立像(長一尺五分)、妙見大菩薩木座像(長九寸五分)、鬼子母神(長五寸五分)、七面明神(長八寸四分)
門前町屋之義は、宝暦七丑年二月願、初メ阿部伊予守様御役中御願申上御免被仰付候。是迠十ケ年目十ケ年目年季之節貸続願仕候所、願之通是迠御免被仰付候。但し表門南之方六間之場所、表門北之方間口七間、梁間弐間之場処ハ、十九年己前年季明之節、取払申候。
以上乙酉書上(「御府内寺社備考」より)


妙福寺所蔵の文化財

  • 日蓮上人袈裟掛けの松由来
  • 馬頭観世音供養塔(大田区指定文化財)

日蓮上人袈裟掛けの松由来

弘安5年9月(1282年)日蓮上人が身延山から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館(池上本門寺)を訪れる前、千束池の畔で休息し傍の松に袈裟をかけ池の水で足を洗ったと伝えられる。この言い伝えから、この松を袈裟掛けの松と称することとなり、また千束池を洗足池とも称されるようになったといわれる。
天保期(1830-1843)の「嘉陵紀行」によれば、初代の袈裟掛けの松は「枝四面におおい長さ幹囲み三合がかり、高さ五丈あり」程あったと記されている。
なお現在ある松は三代目であると伝えられる。(御松庵・社団法人洗足風致協会掲示より)

馬頭観世音供養塔

天保一一年(一八四〇)に、馬込村千束の馬医師や馬を飼っている人々によって、馬の健康と死馬の冥福を祈って建てられたものである。
光背をつけた馬頭観世音像の下は、角柱型の道しるべを兼ねており、各面には「北堀之内碑文谷道」「東江戸中延」「南池上大師道」「西丸子稲毛」というように、東西南北のそれぞれの方向を示す地名が示されている。
この碑文から、もとは中原街道と碑文谷ー池上を結ぶ道との交差する地点に建てられたと推定されるが、民有地に移された後、平成一三年に現在地に移設された。
江戸時代後期の民間信仰、交通史を考える上で貴重なものである。(大田区教育委員会掲示より)

妙福寺の周辺図