円頓寺|大田区蒲田にある日蓮宗寺院

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性光山円頓寺|地頭行方直清の菩提寺

円頓寺の概要

日蓮宗寺院の円頓寺は、性光山と号します。文禄元年(1592)日藝上人が、当地地頭であった兄行方直清とその一族の菩提を弔うため、当寺を中興開基したと伝えられます。

円頓寺
円頓寺の概要
山号 性光山
院号 -
寺号 円頓寺
住所 大田区蒲田2-19-15
本尊 一遍首題曼荼羅
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



円頓寺の縁起

円頓寺は、文禄元年(1592)日藝上人が、当地地頭であった兄行方直清とその一族の菩提を弔うため、当寺を中興開基したと伝えられます。

「大田区の寺院」による円頓寺の縁起

「新編武蔵風土記稿」をはじめ「江戸名所図会」その他の地誌にも、円頓寺の事跡については記載されているが、寺伝によれば、小田原北条氏分国の頃、荏原部南部に行方氏という豪族があった。行方氏は、はじめ上杉氏の家人であったが、のち北条氏に属し、永禄年間(1558~69)弾正明連の時には、八幡塚、高畑、吉川、町屋、道塚、雑色の6郷、および大師河原を合せて361貫24文の地の領主であった。
明連の子孫は、修理亮義安、弾正忠直清と引続きこの地を知行していたが、直清は、天正18年(1590)北条氏滅亡の際、小田原攻めの先鋒、上杉景勝、前田利家等の諸将の軍と戦い、一門の郎党と共に、その館において討死したが、直清の弟は、池上本門寺に逃れ、出家して日芸と名乗った。
文禄元年(1592)日芸は、兄弾正忠直清と、一門の追善菩握のため、旧館跡に1宇を建立、寺名を直清の法名、性光院殿円安行頓日方居士からとって、性光山円頓寺と号した。(「大田区の寺院」より)

新編武蔵風土記稿による円頓寺の縁起

円頓寺
除地2段5畝、海道より西の方八幡社前の邊にあり。法華宗、池上本門寺末。性光山と号す。開山は日澄上人なり。寺伝に云この地は北条の家人行方弾正が館跡にて「小田原記」に六郷は弾正住せりといへるは当所のことなり。小田原没落し、弾正も討死して後、菩提の為一寺を建立して弾正が法謚の字を用ひて山号寺号とせりと。然れば開闢の年代もおそらくは天正慶長の間にありしならん。されば日澄上人は開山として、その實は中興開山日藝上人の創建なるべし。此上人は寛永20年2月朔日寂すといへり。客殿7間に5間、円頓寺の三字を扁す。本尊は三宝祖師、作しらず。
三十番神堂。
門を入て左の方にあり。わずかなる堂なり。
行方弾正墓。
客殿に向ひて左の方にあり。碑面に性光院殿円安行頓日方居士と彫り、側面右の方に天正18庚寅年3月15日、相州小田原陣討死、俗名平性行方弾正、居屋敷六郷地頭境内永除地と刻し、右の方に北蒲田村性光山円頓寺中興開基本法院日藝上人建立とあり。しかるに直清が討死せしを3月15日というふもの疑ふべし。小田原陣は3月27日碑度好し發発駕ありて、先手の勢同月29日豆州山中城を攻しこと合戦のはじめなれば、3月15日は対陣に及ばざる前なり。今按ずるに5月15日の誤か、日藝此碑を建立せしは許多の年を経て後のことなるべければ、其時文字の形のちかきによりて誤り記せしならん。又按ずるに行方氏はもと上杉の家人にて、後に北条家に属し、久しく六郷の地頭なり。世系の詳かなることは傳はざれど、土地に付て尋るに、享禄の頃行方半右衛門と称し、天文の末に弾正と称す。これは父子か又は同人か、それも又知べからず。永禄のはじめ与次郎と称し同年甲斐の信玄此邊に乱入せしの時、八幡の社地えたてこもりし頃は弾正明連といひしよしものに見えたり。此もとの弾正が子なるべし。永禄の末に左馬允と称せしは同人か或は明連が子歟。元亀年中に望千代といふ名見えたり。此修理亮が子なるべし。天正年中に修理亮義安が子なり。相傳ふ行方氏世々法華の教を信じて、いたく他宗を誹謗し、其領内に他宗の寺院あれば、畢く改宗せしめ、其従はざるものは破却せしと云、行方の事蹟は今すべてかんがふるによしなしと云。
種割梅。
行方弾正が、庭前に手自ら植し木なりと云つとふ。(新編武蔵風土記稿より)


円頓寺所蔵の文化財

  • 行方弾正直清供養塔(大田区指定史跡)

円頓寺の周辺図