三徳稲荷神社|大田区西糀谷の神社

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三徳稲荷神社|「三つの徳を授ける」福禄寿に因んだ三徳

三徳稲荷神社の概要

三徳稲荷神社は大田区西糀谷にある神社です。三徳稲荷神社は、浜竹村と呼ばれた当地に宝暦6年(1756)に創建したといいます。浜竹村については新編武蔵風土記稿に「按ずるに護國寺の領となりしは、元禄(1688-1704)の頃のことなるべし、其以前はいかなる人の領所なりしや村人もつたへざれば知べからず、殊に正保(1645-1648)の頃の圖にも沙汰なき村名なれば全く蒲田新宿村に屬して別に一村の名はたたざりしなり【元禄郷帳】には、新宿の枝郷と載」とあることから、浜竹村が一村として成立し、その鎮守として当社、及び観音堂を創建したのではないかと思われます。なお、三徳とは「三つの徳を授ける」福禄寿に因んでいるといいます。

三徳稲荷神社
三徳稲荷神社の概要
社号 稲荷神社
祭神 天照皇大神、豊受姫大神
相殿 -
境内社 天満宮
祭日 二月初午日
住所 大田区西糀谷3-29-2
備考 糀谷観音堂別名みそ観音



三徳稲荷神社の由緒

三徳稲荷神社は、浜竹村と呼ばれた当地に宝暦6年(1756)に創建したといいます。浜竹村については新編武蔵風土記稿に「此村はいつの頃よりか護國寺の寺領となれり、今も猶然り、按ずるに護國寺の領となりしは、元禄(1688-1704)の頃のことなるべし、其以前はいかなる人の領所なりしや村人もつたへざれば知べからず、殊に正保(1645-1648)の頃の圖にも沙汰なき村名なれば全く蒲田新宿村に屬して別に一村の名はたたざりしなり【元禄郷帳】には、新宿の枝郷と載、其名の起りし所以も傳へず。」とあることから、浜竹村が一村として成立し、その鎮守として当社、及び観音堂を創建したのではないかと思われます。

新編武蔵風土記稿による三徳稲荷神社の由緒

(濱竹村)
稲荷社
境内見捨地村の中央にあり、社二間に二間半、西向なり、前に石の鳥居をたつ、社のうしろに宮守居宅あり三間半に二間南向なり。
末社天神社
小祠なり、社の右にあり。
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観音堂
稲荷の社の傍にあり、堂は九尺に二間半なり、内に石の観音の立像あり、長二尺五寸ばかりなり。(新編武蔵風土記稿より)

東京都神社名鑑による三徳稲荷神社の由緒

東京都神社庁所管の宗教法人でないため記載なし。(東京都神社名鑑より)

「大田区の神社」による三徳稲荷神社の由緒

三つの徳が授かるので名称となったと言う。(「大田区の神社」より)

境内掲示による三徳稲荷神社の由緒

三徳稲荷神社の名前が初めて現れたのが宝暦六年(一七五六年)浜竹村に建立されると記されております。(糀谷史の記述)実際、三徳稲荷神社にも伏見稲荷大社よりの書き付けがあり、その文面の年号記載には宝暦八年(一七五八年)二月なのか武州六郷村浜田(浜竹)新井(荒井)五郎左衛門宛てに従五位上 摂津守荷田宿彌春郷と記載。
その事により神社は宝暦六年(一七五六年)に建立された事を物語っております。
その後、明治から大正と至り、先の関東大震災で神社は消滅。大正十三年に三徳稲荷神社を再建。
その後、先の大戦で再び、神社も神輿も全て焼失しました。
戦後はアメリカ軍の占領により、神社は跡形もなく、また神社の土地はアメリカ軍に接収され、返還後に小さな神社を再建しましたが物資のない時代のため痛みが激しくなり、昭和四十年に現在の神社が氏子達の協力により建立され現在に至っております。
三徳稲荷神社の「名前」の由来
三徳とは「三つの徳を授ける」と言う意味であり、その実は(七福神)の福禄寿が起源とされております。中国、宋の時代(、六〇頃〜一二七九年頃)に現れた実在の博士。天南星(年齢は数千歳であったと言う)の化身や南極星の化身(南極老人)とされております。
又、泰山府君(たいさんふくん)であるとも言われる。「泰山」とは中国の五山の一つで、その神が「寿命」を司る事から関連つけられた様である。泰山府君信仰が伝わり、福禄寿が長寿の神として信仰された。
「福」幸運になりますように
「禄」封禄が授かるように
「壽」長生き出来ますように
と言う願いを叶えてくれると言う「三つの徳」であります。(境内掲示より)


三徳稲荷神社の周辺図