赤坂氷川神社|港区赤坂の神社

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赤坂氷川神社|紀州徳川赤坂屋敷の産土神、旧府社、東京十社

赤坂氷川神社の概要

赤坂氷川神社は、港区赤坂にある氷川神社です。赤坂氷川神社の創建年代は不詳ながら、古呂故ヵ岡(赤坂小学校台地)に天暦5年(951)創建したといいます。徳川吉宗が将軍に就くにあたり、当社が紀州徳川赤坂屋敷(旧赤坂離宮)の産土神であった縁から、享保14年(1729)当地に遷座、社領200石の御朱印状を拝領したといいます。明治維新後府社に列格、明治31年古呂故稲荷、地頭稲荷、本氷川稲荷、玉川稲荷を合祀(四合稲荷)、大正14年に、鈴降稲荷神社、縁起稲荷神社二社を、また昭和9年に、明徳稲荷神社を、遷座合祀したといいます。東京十社の一です。

赤坂氷川神社
赤坂氷川神社の概要
社号 赤坂氷川神社
祭神 素盞嗚尊、奇稲田姫命、大己貴命
相殿 -
境内社 四合稲荷神社、九殿社、稲荷神社三社
祭日 9月15日
住所 港区赤坂6-10-12
備考 -



赤坂氷川神社の由緒

赤坂氷川神社の創建年代は不詳ながら、古呂故ヵ岡(赤坂小学校台地)に天暦5年(951)創建したといいます。徳川吉宗が将軍に就くにあたり、当社が紀州徳川赤坂屋敷(旧赤坂離宮)の産土神であった縁から、享保14年(1729)当地に遷座、社領200石の御朱印状を拝領したといいます。明治31年古呂故稲荷、地頭稲荷、本氷川稲荷、玉川稲荷を合祀(四合稲荷)、大正14年に、鈴降稲荷神社、縁起稲荷神社二社を、また昭和9年に、明徳稲荷神社を、遷座合祀したといいます。

東京都神社名鑑による赤坂氷川神社の由緒

旧記によれば、天暦五年(九五一)武州豊島郡人次ヵ原俗称古呂故ヵ岡(赤坂小学校台地)に創祀した。また冶暦二年(一〇六六)早魃のため祭事をはじむと旧記に伝える。江戸時代、幕府の尊信篤く、八代吉宗公将軍職を継ぐに至り、紀州徳川赤坂屋敷(旧赤坂離宮)の産土神由縁により、享保十四年(一七二九)赤坂今井台に神徳を謝し現社殿を造営、翌年遷宮行なわれ、爾後代々将軍直拝、朱印を下付される。昭和四年遷座二百年祭にあたり、社殿朱漆塗替、格天井の花鳥壁間鳳の絵図を加え、丹青荘重善美を尽くす。昭和二十年五月戦災により、手水舎・神楽殿・神輿庫・額殿・神輿三基を焼失した。(東京都神社名鑑より)

境内社四合稲荷神社について

四合稲荷神社
1.古呂故稲荷(赤坂一ツ木二番地、古呂故天神社境内に鎮座)
2.地頭稲荷(氷川神社遷座以前より拠の地に鎮座)
3.本氷川稲荷(本氷川神社隣接、別当盛徳寺の地内に鎮座)
4.玉川稲荷(赤坂門外の御城端、源弁慶橋のあたりに鎮座)
以上、四社を明治三十一年、遷座合祀し、赤坂在住の勝海舟翁により「四合(しあわせ)稲荷」と称えられる。
大正十四年に、鈴降稲荷神社(赤坂一ツ木町に鎮座)及び、縁起稲荷神社(赤坂丹後城下に鎮座)二社を、また昭和九年に、明徳稲荷神社(赤坂新町に鎮座)を、遷座合祀し、現在に至る。
附記
古呂故稲荷神社は、古呂故天神社境内、氷川旧社地(氷川神社御旅所)に祀られていた稲荷神社であって、明治十七年、氷川旧社地を売却した際、現氷川神社境内へ遷座、のちに四合稲荷に合祀された。
地頭稲荷神社は、享保年間、現氷川神社遷座以前より祀られていた稲荷社である。
本氷川稲荷神社は、本氷川神社(昔は溜池付近にあり、のち承応三年に、現氷川神社の隣地へ遷座、今井の総鎮守として、住民から尊崇を受けていた)境内の稲荷社で、本氷川神社と共に明治十六年、現氷川神社境内に遷座、のち四合稲荷に合祀された。
玉川稲荷神社は、水道方玉川庄右衛門の邸内社だったとする説もあるが、御神体玉川上水に流れ来た故に、玉川稲荷と称したものと推定される。明治二十一年、現氷川神社境内に遷座、のちに四合稲荷に合祀された。(境内掲示より)


赤坂氷川神社所蔵の文化財

  • 氷川神社社殿(東京都指定文化財)
  • 奉納絵馬七点(東京都港区指定文化財)
  • 氷川神社の石燈籠四基(東京都港区指定文化財)
  • 氷川神社のイチョウ(東京都港区指定文化財)

氷川神社社殿

この社殿は、本殿・幣殿・拝殿の三つの建物が一体となった、いわゆる権現造りの形式です。
江戸時代の第八代将軍である徳川吉宗によって享保一五年(一七三〇)に建てられました。吉宗は「享保の改革」と呼ばれる倹約政策をとったことで有名で、社殿にも当時の質実簡素な気風を見ることが出来ます。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたり、彫刻や彩色などで飾り立てたりするのですが、この社殿の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。しかしただ質素なだけではなく、大きな雲形組物や吹寄せ垂木など軽快な意匠を取り入れる工夫も見られます。また全体は朱塗漆としながら、部分的に黒漆塗や黒色金具を用いることで引き締まった印象となっています。(東京都教育委員会掲示より)

「ま」組火消し絵馬

門の内外に立つ二対四基の石燈籠です。門内の本殿前に立つ二基は、赤坂表伝馬町・裏伝馬町・元赤坂町(現在の元赤坂一〜二丁目)の講中が、享保九年(一七二四)閏四月に奉納したものです。氷川神社が徳川吉宗の産土神として信仰され、現在の地に遷座したのは同十五年であり、それ以前は「古呂故が岡」(現在の赤坂四丁目一辺り)にありました。この燈籠はその時代のもので、遷座に際し移されたものと考えられます。(東京都港区教育委員会掲示より)

氷川神社の石燈籠四基

この社殿は、本殿・幣殿・拝殿の三つの建物が一体となった、いわゆる権現造りの形式です。
江戸時代の第八代将軍である徳川吉宗によって享保一五年(一七三〇)に建てられました。吉宗は「享保の改革」と呼ばれる倹約政策をとったことで有名で、社殿にも当時の質実簡素な気風を見ることが出来ます。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたり、彫刻や彩色などで飾り立てたりするのですが、この社殿の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。しかしただ質素なだけではなく、大きな雲形組物や吹寄せ垂木など軽快な意匠を取り入れる工夫も見られます。また全体は朱塗漆としながら、部分的に黒漆塗や黒色金具を用いることで引き締まった印象となっています。(東京都教育委員会掲示より)


赤坂氷川神社の周辺図


参考資料

  • 東京都神社名鑑