宝幢院|北区赤羽にある真言宗智山派寺院

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医王山宝幢院|豊島八十八ヶ所、北豊島三十三ヶ所

宝幢院の概要

真言宗智山派寺院の宝幢院は、医王山東光寺と号します。宝幢院は、寛正2年(1461)宥鎮和尚により開山、浮間村西野(宝幢院屋敷)にあったと伝えられます。約150年後に深承阿闍梨及び宥意和尚が中興、慶安2年(1649)寺領10石余りの御朱印状を受領しています。豊島八十八ヶ所霊場45番札所、北豊島三十三ヶ所霊場12番札所です。

宝幢院
宝幢院の概要
山号 医王山
院号 宝幢院
寺号 東光寺
住所 北区赤羽3-4-2
宗派 真言宗智山派
本尊 薬師如来
葬儀・墓地 -
備考 -



宝幢院の縁起

宝幢院は、寛正2年(1461)宥鎮和尚により開山、浮間村西野(宝幢院屋敷)にあったと伝えられます。約150年後に深承阿闍梨及び宥意和尚が中興、慶安2年(1649)寺領10石余りの御朱印状を受領しています。

北区教育委員会掲示による宝幢院の縁起

宝幢院は医王山東光寺と号し、真言宗智山派に属する寺院で、本尊は薬師如来像です。寛正2年(1461)宥鎮和尚によって開山され、約150年後に深承阿闍梨及び宥意和尚が中興しました。「新編武蔵風土記稿」には、慶安2年(1649)に三代将軍家光から赤羽根村内に10石余の年貢・課役免除の朱印を付されたことが記されています。寺伝や浮間の古老の言い伝えによれば、かつてこの寺は、浮間村西野(現在の浮間4丁目にほぼ相当)にありましたが、荒川の氾濫による洪水を避けて赤羽に移転し、跡地は宝幢院屋敷と呼ばれたそうです。
境内には、区内最古の寛永16年(1639)霜月18日銘の阿弥陀如来線刻庚申塔があります。板碑型の石塔本体正面には、阿弥陀如来立像と2猿が線刻され、「山王廿一社」の文字を見ることができます。「庚申」という文字が無く、本来は三猿のところがニ猿であるために、この塔を庚申塔と呼ぶかは議論が分かれますが、区外には、庚申信仰と山王信仰の結び付きを表した類似のモチーフがあるところから、この塔も両者の信仰が結び付いて造立されたようです。
その他に馬持講中(当時馬を飼っていた資力のある村民)の人名を刻んだ馬頭観音塔や、出羽三山供養塔などがあり、この地の歴史を知る上で貴重なものとなっています。(北区教育委員会掲示より)

新編武蔵風土記稿による宝幢院の縁起

(赤羽根村)寶幢院
新義真言宗、足立郡川口宿錫杖寺末、医王山東光寺末と号す。慶安2年寺領10石余の御朱印を附らる。草創の年代は伝へされと住僧の内秀永と云もの天文9年11月21日寂せしといへば、其以前の草創なりし事知らる。本尊薬師を安す。
大日堂。(新編武蔵風土記稿より)

北区観光ガイドマップによる宝幢院の縁起

かつては浮間の西野にあったといわれ、その跡は宝幢院屋敷と呼ばれていました。宝幢院の開山は宥鎮和尚の開基で、寛正2年(1461)です。慶安2年10月、徳川三代将軍家光公より寺領として赤羽根村内に10石余を賜りました。明治維新後の神仏分離まで赤羽八幡神社の別当寺でした。院前の道しるべは江戸中期につくられたもので、「東川口善光寺道 日光岩付道」「西西国富士道 板橋道」「南江戸道」と刻まれています。この地が交通の要であったことがわかります。(北区観光ガイドマップより)

「北区史民俗編」による宝幢院の縁起

赤羽の宝幢院は、もとは浮間にあったといわれている。古老の言い伝えによると、江戸時代の中頃まで浮間にあったが、浮間は荒川の氾濫で家が流失することがしばしばあったので、洪水を避けて赤羽に移転したといわれている。
宝幢院の旧地は、寺伝では浮間村の西野にあって、かつて「宝幢院屋敷」と呼ばれた場所だといっており、さらに現在の観音寺があるあたりだといっている。しかし浮間の旧家の中にはニシのホラのもっとも北側、清水吉一家の西側に隣接する区域ではなかったかと想定する人達もいる。ここも西野の一部であって、墓地の跡があったといわれている。(「北区史民俗編」より)


宝幢院所蔵の文化財

  • 阿弥陀如来線刻庚申塔
  • 馬頭観音塔
  • 出羽三山供養塔
  • 宝幢院前の道標

宝幢院前の道標

門に向かって右側の道標は、江戸時代の中期、元文5年(1740)12月に了運という僧侶によって造立されたものです。 宝幢院の前は、板橋道が日光・岩槻道と合流する位置でしたので、銘文には「東 川口善光寺道日光岩槻道」・「西 西国富士道板橋道」・「南江戸道」と刻まれています。日光・岩槻道は、岩淵宿から川口へと船で渡り、鳩ヶ谷・大門・岩槻の宿場をへて幸手宿で日光街道に合流する道筋です。江戸幕府の歴代将軍が徳川家康・家光のある日光に社参するための専用の道としたので日光御成道とも呼ばれました。板橋道は、西国へと向かう中山道や八王子から富士山北麓の登山口へと向かう富士道へ通じていました。 道標は、各々の方向からきた人々が、まず自分の歩いてきた道を確認し、つぎにこれから訪ねようとする土地への道が、どの道なのかということを確認できるように造られたものです。


宝幢院のもと末寺


宝幢院の周辺図