赤塚城跡|板橋区赤塚の名所旧跡

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赤塚城跡|武蔵千葉氏の居城

赤塚城跡の概要

赤塚城跡は、板橋区赤塚にある名所旧跡です。赤塚城跡は、荒川低地に面し、東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地上にある室町時代の城跡です。赤塚城は、康正二年(一四五六)に千葉自胤が入城、太田道灌に従って各地を転戦し、武蔵千葉氏の基盤となったといいます。北条氏が武蔵国へ進出した際には、北条氏に従い、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされた天正18年(1590)に廃城となったといいます。

赤塚城跡
赤塚城跡の概要
名称 赤塚城跡
みどころ -
区分 史跡
住所 板橋区赤塚5-35-25赤塚城跡公園
備考 -




赤塚城跡

赤塚城跡は、荒川低地に面し、東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地上にある室町時代の城跡です。赤塚城は、康正二年(一四五六)に千葉自胤が入城、太田道灌に従って各地を転戦し、武蔵千葉氏の基盤となったといいます。赤塚城の縄張りは、石碑のある広場が本丸、二の丸は梅林の場所とも乗蓮寺の地とも言われるものの定かではありません。北条氏が武蔵国へ進出した際には、北条氏に従い、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされた天正18年(1590)に廃城となったといいます。

新編武蔵風土記稿による赤塚城跡について

(下赤塚村)
千葉氏城趾
村の西北にあり、荒川より十四五丁を隔つ、今は堀のみ殘りて、山林及陸田となれり、土人城山と呼ぶ【鎌倉大草紙】に、千葉介實胤市川の城に楯籠り、成氏と數度合戦して康正二年正月十九日没楽し、實胤武州石濱へ落行、自胤武州赤塚へ移る、兩總州の兵とも大半成氏へ降参すと見ゆ、是より世々千葉氏居住し【小田原役帳】にも當所千葉氏の所領たりし事を載す、天正の頃は松戸越前守此城に居り、千葉次郎の指揮を請く、【小田原記】天正元年關宿城降参の條に、千葉次郎幼少なればとて、與力の侍幷石濱の城を木内上野に預らる、上野討死の後は子息木内宮内少輔支配あり、彼與力衆は板橋肥後守、板橋城主、松戸越前守赤塚の城主と載す、其廢城となりしは天正十八年の頃なるべし。(新編武蔵風土記稿より)

板橋区掲示による武蔵千葉氏と赤塚城跡について

武蔵千葉氏と赤塚城跡
下総国の守護千葉氏は、古河公方足利成氏と関東管領上杉家とが争った享徳の大乱に巻き込まれ、一族で骨肉相食む争いを繰り広げました。康正二年(一四五六)成氏方の軍勢に攻められた千葉実胤・自胤兄弟は、上杉家の助けをうけ、市川城を遁れて赤塚城と石浜城(現台東区)へ入城しました。
康正四年(一四六八)に兄の跡を継いだ自胤は、太田道灌に従って各地を転戦、現在の和光市や大宮市、足立区内に所領を獲得するなど、武蔵千葉氏の基盤を築きました。
その後、武蔵千葉氏は、南北朝以来の領主であった京都鹿王院の支配を排除するなど赤塚の支配の強化に努め、北条氏が武蔵国へ進出してくるとこれに従い、豊臣秀吉に滅ぼされる天正十八年(一五九〇)まで勢力をふるいました。
城は荒川低地に面し、東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地上にあります。その縄張りは、地形の観察等から都立公園の広場の部分が一の廓、梅林の部分が二の廓、そしてその西側が三の廓とする見解もありますが、正確なことはまだ明らかとなっていません。(板橋区教育委員会掲示より)

板橋区掲示による赤塚城跡と徳丸ケ原について

赤塚城跡と徳丸ケ原
赤塚城跡は、この公園の南の台地上に位置する室町時代の城跡です。現在は、大部分が都立公園となっており、城山、お林山などとも呼ばれています。
ここは、康正二年(一四五六)に千葉自胤が入城したと伝えられ、現在でも空堀や土塁の跡を見ることが出来ます。北、東、西の台地の三方は、自然の谷で区画され、北側の溜池は、それらの谷のしみだし水をたたえています。
城跡の北側に開ける高島平は、江戸時代、徳丸ケ原と呼ばれた原野でした。ここで天保一二年(一八四一)、高島秋帆が洋式の砲術訓練を行ったことが、高島平の地名の由来となっています。明治時代以降は開墾され、徳丸田んぼと呼ばれる一面の水田地帯となりました。この時溜池の水は、灌漑用水として利用されています。
高島平団地の開発が始まったのは、昭和四〇年代に入ってからのことです。(板橋区教育委員会掲示より)


赤塚城跡の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿