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猫の足あと

東福寺。横浜市西区赤門町にある高野山真言宗寺院

東福寺の概要

高野山真言宗寺院の東福寺は、光明山遍照院と号します。東福寺の創建年代は不詳ながら、寛元年間(1243-1247)に玄心法印が開山、後嵯峨院の勅願所だったと伝えられます。太田持資入道道灌が中興、天正19年(1591)寺領3石の御朱印を拝領、周辺に多くの末寺を擁する中本寺格の寺院でした。東国八十八ヵ所霊場36番、横浜觀音三十三所の2番、横浜弘法大師二十一所の5番です。

東福寺
東福寺の概要
山号 光明山
院号 遍照院
寺号 東福寺
住所 横浜市西区赤門町2-17
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 -



東福寺の縁起

東福寺の創建年代は不詳ながら、寛元年間(1243-1247)に玄心法印が開山、後嵯峨院の勅願所だったと伝えられます。太田持資入道道灌が中興、天正19年(1591)寺領3石の御朱印を拝領、近郷に24の末寺を擁する中本寺格の寺院でした。

新編武蔵風土記稿による東福寺の縁起

(太田村)東福寺
除地、九段六畝七歩、原組の内にあり。古義真言宗、紀州高野山末、光明山遍照院と号す。開山玄心法印十一月朔日寂すとのみにて年代を失ふ。当寺は後嵯峨院の勅願所なりと云傳ふれど、明證なし。古は海邊によりてありしが、盗賊に焼亡せられて後、当所に移転す。よりて今も旧地を元屋敷といへりと。中興開山は太田持資入道道灌なりとて、今も堂舎に桔梗の紋を付く。寺領御朱印三石は天正十九年賜ふ処なり。本尊従一面観音立像長二尺余。本堂五間に四間、巽向。
寺宝
短刀一腰。長一尺余、太田道灌の守刀なりと云。古物と見ゆれど、作者及寄納の由来を傳へず。
佛像三体。製作泥塑の如くみゆ。弘法大師護摩の余灰を以て作れりと云傳ふ。一は長四寸許の坐身後光あり。一は同形にて長三寸八分、一は二寸許、共に古佛なり。此余塔の形の如きもの一あり。弥陀の種字を彫る。
門。四足門なり。堂の正面に建。
鐘楼。門の右にあり。萬冶二年鋳造の鐘にて銘文なし。
大日堂。本堂に向て左にあり。大日の長二尺。
羽黒社。本堂後の山上にあり。
塔頭。西福院。長温院。成勝院。松南院。大元寺。五支院皆廃跡と成て再建に及ばれず。(新編武蔵風土記稿より)

「横浜西区史」による東福寺の縁起

光明山遍照院東福寺(高野山真言宗、本山高野山金剛峰寺)
赤門町ニ‐一七。住職増田大祐。本尊聖観音菩薩。寛元年間(一二四三~四七)元心法印の創立とされ、文明年中(一四六九~八六)太田道潅が再興したという。寺地はもと海辺寄りにあったが、慶長十二年(一六〇七)現在地に移ったと伝える(『市史稿仏寺編』)。寛永十年(一六三三)書上の「関東真言宗古義本末帳」によれば、烏山三会寺恩田徳恩寺石河宝生寺金沢龍花寺と共に、横浜市域内の法談所の一つで、当時二十二の末寺を有していた(大日本近世史料『諸宗末寺帳』)。天正十九年(一五九二)徳川家康より寺領安堵の朱印状を下付され(『武蔵風土記稿、太田村』)、寺伝では、その時三葉葵の寺紋を許されたといわれる。朱塗りの山門(『角川日本地名大辞典、神奈川県』には、丹朱の楼門の建立は、幕末かそれ以降であろう、とある)から一般に赤門東福寺と称された。震災、戦災と二度に亘って堂宇悉く焼失、辛うじて本尊及び過去帳のみ難を逃れたが、古記録類は総て消滅した。本堂その他は、昭和三十五年頃までに再建を完了し、本堂の手前左側に閣魔堂も再建されて、毎年一月と七月の十六日に開扉される。境内墓地に富貴楼お倉や生糸の橋本重兵衛、市会議員大原邦三郎、作家長谷川伸一族などの墓がある。(「横浜西区史」より)

「横浜市史稿 佛寺編」による東福寺の縁起

東福寺
位置及び寺格
東福寺は、光明山遍照院と號し、中區南太田町、字、谷原二千八十六番地にある。
境内は七百五十六坪。高野山金剛峯寺末の中本寺で、孫末十七箇寺を總持し、市内觀音三十三所の内第二番、同弘法大師二十一所の内第五番の靈場である。
沿革
後嵯峨天皇の勅願により、元心法印(風土記には、玄心法印とある。)が、寛元元年の創立で、その當時は七堂伽藍を完備した莊嚴なる巨刹であつたが、星霜三百年を經て、寺運漸く衰頽に傾いたところ、文明年中、太田道灌によつて中興された。元龜・天正の頃に至つて、屢安房の海賊の爲めに掠奪を被り、其極、天正四年四月、賊火に罹つて堂塔・什寶悉く灰燼に歸した。依つて後難を慮り、海邊寄りの舊境地を捨てゝ今の寺域に移轉し、慶長十二年、伽藍の再建を遂げたといふ。
天正十九年、德川家康より寺領三石の寄進を得、又、葵の紋章を用ふる事を許された。寛永十年二月十五日、關東古義眞言宗の本末議定により蓮花院普門院薬王寺・吉祥寺・西福院・大光寺願成寺・良音院・東光寺・大聖院・延命寺・成勝院・香象院安楽寺遍照寺・松南院・円福寺・大仙寺・大元寺・眞福寺・福生寺・般若寺・金剛寺・長泉寺の二十四箇寺を、改めて當寺の末寺とした。當時、寺中不入の特典と、御朱印地三石の寺領を有し、武・相・豆三箇國の法談所の一で居た。萬治二年、梵鐘鑄造。寶永四年四月十七日、祝融の災に罹り、其後、再建したが、文政五年十一月二十日、又、火災に罹つたと云ふ。天保元年の頃の本堂は、五間に四間で、外に四足門・鐘樓・大日堂・羽黑社があつた。併し當時は旣に、塔頭の西福院・良溫院・成勝院・松南院・大元寺の五支院、皆、廢絶した事が、新編武藏風土記稿に見える。天保十年、住僧隆盛再建。此頃、羽黑社及び大日堂廢絶した。爾後、寺運次第に傾き、明治の初年に至つては荒廢を極めたので、有志、伏島近藏がこれを歎き、法類、增德院の住職、佐伯妙用に謀り、高野山から金光寺信元を迎へて住職とし、外護の力を盡した。信元、克く寺門の興隆に精進したので、大に檀信徒の歸依を得、明治八年には、境内を擴張して規模を改め、學校を附設して、敎化の根柢を培ひ、遂によく中興を遂げた。然るに、明治四十年九月十三日、慮らずも火を失して、伽藍は烏有に歸したが、直ちに時の住職、隆應が再建の功を立てた。その本堂は、桁行十二間、梁間十三間半、附近稀に見る莊嚴を呈し、特に朱塗の山門が華麗であつたので、赤門東福寺の名を廣く世間に暄傳せらるゝに至った。大正六年、浮浪の徒の放火する所となり、又々灰燼に歸したが、寺主の盡瘁と、檀信徒の協力とにより朞年にして再び一大伽藍の建立を見ることが出來た。其、本堂は、十間に十四間、庫裡は十間に十間、樓門は四間に三間、左右に金剛・密迹の力士を据ゑ、何れも瓦葺にして、市中の一偉觀をなしたが、大正十二年九月一日、彼の大震火災・に遭ひ、復一山を焦土と化するの不幸を重ねた。而も復興の業、容易に進渉し、早くも大正十四年四月二十四日、現在の伽藍の落慶を遂げたのである。
本尊
本尊は、聖觀世音の立像で、高二尺九寸、蓮座共の高さは四尺九寸である。
堂宇
現今の堂宇は、本堂外陣、桁行八間、梁間五間、入母屋造、銅板葺。向拜唐破風造。内陣角屋桁行三間、梁間四間。庫裡桁行七間、梁 間五間半。玄關二間 一間。等である。(「横浜市史稿 佛寺編」より)

東福寺のもと末寺


東福寺の周辺図


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