田谷御霊社|横浜市栄区田谷町の神社

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田谷御霊社|村岡御霊社を勧請して創建した十三社のうちの一社

田谷御霊社の概要

田谷御霊社は、横浜市栄区にある御霊社です。田谷御霊社は、鎌倉の平氏(鎌倉・村岡・長尾・梶原・大庭五氏)が全盛だった頃に、村岡の御霊社を勧請して創建した十三社のうちの一社で、平安時代末期の創建ではないかといいます。大正12年に田谷の神明社・山王社を合祀しています。

田谷御霊社
田谷御霊社の概要
社号 御霊社
祭神 鎌倉権五郎景政
相殿 天照大神、大山咋命
境内社 -
住所 横浜市栄区田谷町1506
祭日 例大祭9月第2日曜日(命日9月18日)
備考 -



御霊社の由緒

田谷御霊社は、鎌倉の平氏(鎌倉・村岡・長尾・梶原・大庭五氏)が全盛だった頃に、村岡の御霊社を勧請して創建した十三社のうちの一社で、平安時代末期の創建ではないかといいます。大正12年に田谷の神明社・山王社を合祀しています。

新編相模国風土記稿による御霊社の由緒

(田谷村)
御靈社
村の鎮守とす、例祭十一月十七日、熊野・稲荷を合祀す、定泉寺持、
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神明宮
村持下同、
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稲荷社
山王社
天神社
八幡宮
第六天社(新編相模国風土記稿より)

神奈川県神社誌による御霊社の由緒

創立年代は詳かでないが、遠く源義家の家臣として勇猛の聞えの高かった鎌倉権五郎景政公の霊力を慕い、鎌倉幕府の鬼門の方角に当る当田谷郷に其の頃社殿を建立し、以って使臣を遣わし参拝奉賽せしめたものである。
天保五年に社殿再建の棟札が現存して居り、隣接定泉寺と共に古くより現在の地に鎮座し、田谷町民の崇敬社となっていた。(神奈川県神社誌より)

「戸塚区郷土史」による御霊社の由緒

御霊社(田谷町一五〇八番地)
祭神は天照大神・大山咋命・鎌倉権五郎景政の三柱の神。縁起によれば桓武天皇の弟早良親王ほか三人を合祀したのが京極御霊社であった。村岡五郎良文は勅を蒙り、平将門征討の途次、京極御霊社を勧請して、相州村岡の里に祭祀すると共に、自らは相模守として村岡城に入った。かくて良文は将門討伐に向かったが、時に国香の子で良文の甥にあたる貞盛が下野の押領使藤原秀郷の援助を得て将門をほろぼしたため、将門は戦わずして関八州を平定し得たのであるが、これというのも一に御霊社の神慮による援護のたまものであるとして、ますます御霊社を厚く尊崇した。良文の曾孫景成は鎌倉大倉谷に館を建てて、鎌倉を氏とした。その子が景政であり、景政は応徳三年(一〇八六)、後三年の役に義家に従い戦功をたて、翌寛治元年凱旋したが、時に村岡の御霊社に御礼まいりをし、印にかぶとを埋めその上に松を植えたといわれる。その松がかぶと松と呼ばれているもので(昭和二十二年枯死)、その後景政の子鎌倉太郎景継は村岡の御霊社を由井の里に勧請し、北条寺頼の命令により景政をも合祀して五座とした。これが鎌倉坂下の御霊社である。その後関東は平氏隆盛時代をむかえるに至り、近郷に十三社分霊されたといわれ、そのうち一柱が田谷の御霊社である。とすれば、当社は平安末期の創建であったと思われる。越えて天保五年総欅材をもって中宮の社殿と鳥居を造営(大工佐藤喜兵衛)、明治二十三年四月三十日には拝殿を改築し御遷宮式を挙げたが、大工棟梁は宮内三右衛門。大正十二年四月亀甲山所在の神明社および山王社を御霊社に合祀するとともに、村社に列せられた。(「戸塚区郷土史」より)


田谷御霊社の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿