洪福寺。横浜市西区浅間町にある臨済宗建長寺派寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

海東山洪福寺。横浜三十三観世音霊場

洪福寺の概要

臨済宗建長寺派寺院の洪福寺は、海東山と号します。洪福寺の創建年代については諸説ありますが、仏寿禅師(文和3年1354年寂)が袖摺山に草創、当地の百姓権左衛門の先祖心無道安(万治3年1660年没)が中興開基、大空呑海和尚が中興開山となり、寛永13年(1636)袖摺山より当地へ移転したのではないかともいいます。一方寺伝では、袖摺山薬師堂を当地に移した寛永13年(1636)を創建としているといいます。横浜三十三観世音霊場13番です。

洪福寺
洪福寺の概要
山号 海東山
院号 -
寺号 洪福寺
住所 横浜市西区浅間町5-385-3
宗派 臨済宗建長寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



洪福寺の縁起

洪福寺の創建年代については諸説ありますが、仏寿禅師(文和3年1354年寂)が袖摺山に草創、当地の百姓権左衛門の先祖心無道安(万治3年1660年没)が中興開基、大空呑海和尚が中興開山となり、寛永13年(1636)袖摺山より当地へ移転したのではないかともいいます。一方寺伝では、袖摺山薬師堂を当地に移した寛永13年(1636)を創建としているといいます。

新編武蔵風土記稿による洪福寺の縁起

(芝生村)洪福寺
村の南にあり、海東山と號す、臨済宗鎌倉建長寺の末、開基は此村の百姓権左衛門が先祖にて、法號を心無道安と云、萬治三年二月十六日死せり、されど村の記録に當寺の開山は佛壽禅師と載たり、此禅師は文和三年二月十八日示寂せしといへば、何をそれと定めたらんにも、心無道安は中興の開基なるべし、又村老の傳へには大空呑海和尚とも云へり、是も中興の開山か、この寺は海道の右薬師堂山にあり、其頃は薬師を置る庵室なりしが、天正念中今の地へ移りて一寺となれりと、さあらんには佛壽禅の起立せし頃は薬師の堂ならん、今の客殿七間に五間ここに安せし薬師は、鎌倉権五郎景政が守り本尊にて、目洗薬師と云坐像丈三寸五分聖徳太子の作なり。
地蔵堂。客殿に向ひて右なり、石の立像たてり。
社宮司社。客殿に向て左にあり、當寺の境内もと此宮の為に免除せられしなど云へば、舊社なるべし。(新編武蔵風土記稿より)

「横浜市史稿 佛寺編」による洪福寺の縁起

洪福寺
位置及寺格
洪福寺は、神奈川區淺間町字社宮司五百九十五番地にある。境内は、六百十四坪。官有地八十五坪、民有地五百二十九坪。大本山、建長寺直末の一等地である。
沿革
新編武藏風土記稿には「開基ハ、此村ノ百姓權右衞門ガ先祖ニテ、法號ヲ心無道安卜云。萬治三年二月十六日死セリ。サレド、村ノ記錄ニ、當時ノ開山ハ、佛壽禪師ト載タリ。此禪師ハ、文和三年二月十八日示寂セシトイへバ、何レヲ、ソレト定メタランニモ、心無道安ハ、中興ノ開基ナルベシ。又、村老ノ傳ヘニハ、大空呑海和尙トモ云ヘリ。是モ、中興ノ開山カ。コノ寺ハ、海道ノ右、藥師山ニアリ。其頃ハ、藥師ヲ置ル庵ナリシガ、天正年中、今ノ地へ移リテ、一寺トナレリト。サアランニハ、佛壽禪師ノ起立セシ頃ハ、藥師堂ナラン云々。」とあり。今の寺傳には、「紀元二千二百九十六年、德川三代將軍家光、戸籍ノ制ヲ改メ、寺僧ヲシテ掌ラシム。當時、當町ニハ、寺院ナキヲ以テ、當町字、追分、袖摺山藥師堂ヲ移シ、當地ニ一寺ヲ創設ス。」と載せてあるから、佛壽禪師は、元の藥師堂の開基で、心無道安及び大空呑海の兩和尙は、今の寺院の開基及び開山であると稱へて居る。文政の頃は、七間に五間の客殿に、藥師を安置してゐたと云ふが、明治十六年一月二日に、祝融の災厄に罹り、同年、本堂以下を再建した。大正十二年九月一日の大震災に、山門を殘して堂宇の悉皆を倒潰したが、翌十三年の六月に、先づ本堂の復興を遂げ、同年八月、庫裡の再建を完うした。
本尊
本尊は、釋迦如來の像。(「横浜市史稿 佛寺編」より)

「横浜西区史」による洪福寺の縁起

海東山洪福寺(臨済宗建長寺派)
浅間町五-三八五-三。住職奈良光雄。本尊薬師如来。寺伝には開山呑海、寛永十三年(一六三六)袖摺山薬師堂を当地に移して一寺とした、とあるが、寛永十年の「相州鎌倉建長寺末寺帳」に「雲外庵末、武州小机郡帷郷洪福寺」とあるので、「武蔵風土記稿、芝生村」の「村の記録に、当寺の開山は仏寿禅師と載たり、(中略)、此の寺は海道の右、薬師堂山にあり、其頃は薬師を置る庵なりしが、天正年中(一五七三〜九二)今の地へ移りて一寺となれりと、さあらんには仏寿禅師の起立せし頃は薬師の堂ならん」とある。墓地は現在も旧地の薬師堂山にあり、芝生村旧家の墓が多く残っている。また本尊薬師如来は、鎌倉権五郎景政の守り本尊と伝えられ、目洗薬師と言われている。(「横浜西区史」より)


洪福寺の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「横浜市史稿 佛寺編」
  • 横浜西区史(西区教育委員会)

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿