成田山横浜別院延命院

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成田山横浜別院延命院。関東三十六不動、東国八十八ヵ所霊場

成田山横浜別院延命院の概要

真言宗智山派寺院の成田山横浜別院延命院は、成田山新勝寺の横浜別院です。成田山横浜別院延命院は、成田山不動尊を信奉する横浜の信者の為に、教会所として明治3年に創建、成田山新勝寺境内にあった延命院の名跡を移す形で明治26年成田山延命院となったといいます。関東三十六不動3番、東国八十八ヵ所霊場38番、横浜弘法大師二十一箇所2番です。

成田山横浜別院延命院
成田山横浜別院延命院の概要
山号 成田山
院号 延命院
寺号 -
住所 横浜市西区宮崎町30
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 成田山新勝寺の横浜別院



成田山横浜別院延命院の縁起

成田山横浜別院延命院は、成田山不動尊を信奉する横浜の信者の為に、教会所として明治3年に創建、成田山新勝寺境内にあった延命院の名跡を移す形で明治26年成田山延命院となったといいます。

「横浜西区史」による成田山横浜別院延命院の縁起

成田山横浜別院延命院(真言宗智山派)
宮崎町三〇。住職鶴見照碩。本尊不動明王。明治三年本山成田山新勝寺より分霊を勧請して、太田村(現南区西中町)普門院境内に遥拝所を設立。同九年高島嘉右衛門から敷地の施入を得て現在地に移り、成田山教会と改めた。その後、明治二十六年本山塔頭より寺号を転じて延命院と号した。通称野毛不動と呼ばれている。(「横浜西区史」より)


「横浜市史稿」による成田山横浜別院延命院の縁起

延命院
位置及寺格
延命院は成田山と號し、中區宮崎町三十番地にある。境内は、一千〇七十坪三合。下總國、成田山新勝寺の直末、準別格本山の特七級である。
沿革
明治三年に、市内の成田山不動の信徒、數百名の希望で、本山から分靈を勸請し、南太田町普門院の境内に遙拜所を設立したのが、本院の濫觴である。同九年、高島嘉右衞門から敷地の施入を得て、現位置に移轉し、桁行四間、梁間五間半の本堂、及び五間に六間の庫裡を建立して、成田山敎會所と改めた。爾來、信徒は年と共に增加して、明治十五年に、新榮講社の寄進を得て、更に四間半に五間の客殿の造立を遂げ、明治二十六年九月七日には、本山塔中から寺號を轉じて、こゝに一箇寺とし、準別格本山に列せらるゝに至つた。大正十二年九月一日の大震火災に、堂宇を擧げて灰燼に歸したが、偶、本堂改築の準備中でもあつたので、直に再建の工を起し、大正十四年三月一日、早くも現在の堂宇の落慶式を擧げて、市中復興の魁をした。
本尊
本尊は不動明王竝に兩童子。
堂宇
現今の堂宇は、本堂 桁行六間、梁間七間半、入母屋造、銅板葺。・庫裡六十三坪五合。及び境内佛堂である。
境内佛堂
境内佛堂、大師堂。明治三十五年、市原重治郞の寄附によつて建立したが、震災に燒失したので、其後に再建した。本尊は弘法大師である。同水行堂。明治三十二年、成田山新榮講の寄附によつて建設したが、震災に燒失したので、其後再建を遂げた。本尊は不動である。(「横浜市史稿」より)

成田山横浜別院延命院の周辺図

参考資料

  • 横浜西区史(西区教育委員会)
  • 「横浜市史稿」

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿