林光寺。横浜市西区元久保町にある臨済宗建長寺派寺院

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通峯山林光寺。野毛に1600年創建

林光寺の概要

臨済宗建長寺派寺院の林光寺は、通峯山と号します。林光寺は、福聚寺四世文山虎公(寛永3年1626年寂)請じて、慶長5年(1600)野毛に創建、明治23年当地へ移転したといいます。異説には小田原北条氏のころに臨江寺として創建したとも、今川氏眞に仕えていた八木九兵衛正重が開基となり明心和尚が創建したともいいます。

林光寺
林光寺の概要
山号 通峯山
院号 -
寺号 林光寺
住所 横浜市西区元久保町1-20
宗派 臨済宗建長寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



林光寺の縁起

林光寺は、福聚寺四世文山虎公(寛永3年1626年寂)請じて、慶長5年(1600)野毛に創建、明治23年当地へ移転したといいます。異説には小田原北条氏のころに臨江寺として創建したとも、今川氏眞に仕えていた八木九兵衛正重が開基となり明心和尚が創建したともいいます。

「横浜西区史」による林光寺の縁起

通峯山林光寺(臨済宗建長寺派)
元久保町一-二〇。住職内田智昭。本尊薬師如来。寺伝によれば、慶長五年(一六〇〇)、福寿庵(現保土ヶ谷区岩井町福聚寺)四世文山虎公(寛永三年-一六二六-没)を請じて、野毛の地に創建されたとされる(「市史稿仏寺編」)。しかし、後北条氏『小田原衆所領役帳』の『他国衆役帳』に、『油井領(現八王子市)七拾弐貫四百二十三文、久良岐郡富部臨江寺分』とあり、また、寛永十年の『相州鎌倉建長寺末寺帳』には廣徳庵末寺として、武州久良岐ノ郡岩間郷福寿庵と並んで、野毛臨江寺とある。この臨江寺と当寺との関係ははっきりしないが、江戸時代と思われる戸部村明細帳残欠と称する記述には、「御除地 禅宗 此寺内五畝二十六歩 岩間村福寿寺末寺臨江寺」とあって、この寺内面積五畝二十六歩が『武蔵風土記稿、戸部村』の「林光寺 除地、五畝二十六歩、禅宗臨済派、相州鎌倉建長寺末、橘樹郡保土ヶ谷宿の内、岩間丁福寿寺隠居所なり、通峯山と号す」という記述にある除地面積と一致することから、「市史稿」では、臨江・林光は同一寺であると見ている。このように、役帳(一五五九頃)、末寺帳(一六三三)、村明細、風土記稿(一八二〇前後)と、臨江寺あるいは林光寺と記録されている。ただし、戸部村明細帳の成立時期は、なお検討を要する。野毛林光寺は、寺地狭隘であったので、明治二十三年現在地に移転した。(「横浜西区史」より)

新編武蔵風土記稿による林光寺の縁起

(戸部村)林光寺
除地、五畝二十六歩、南の方字寺山にあり、禅宗臨済派、相州鎌倉建長寺末、橘樹郡保土ヶ谷宿の内、岩間丁福聚寺隠居所なり、通峯山と號す、【北條役帳】に富部臨江寺とあれば、永禄の頃は臨江の文字を用皮脂にや、又もとより林光と書しなれど、字音同きを以て役帳にかく記瀬下知べからず、或説に當寺開山は明心和尚と云、開基は八木九兵衛正重なり、此人今川氏眞に仕へ、彼家沒落の後浪人となり、御入國の時長谷川七左衛門長綱に屬して關東に下り、其後召出され金澤の御代官を命ぜらると云、若然らば天正十八年以後の造立なれば、役帳に載る臨江寺にはあらず、今住僧もなければ捜窮に由なし、本堂二間に三間、本尊地蔵を安置す、(「新編武蔵風土記稿」より)

「横浜市史稿 佛寺編」による林光寺の縁起

林光寺
位置及寺格
林光寺は通峯山と號し、中區久保町八百六十五番地にある。境内は五百二十九坪。大本山、鎌倉建長寺の直末である。
沿革
開基や年代は不詳であるが、橫濱開港五十年史には「長享の頃、僧光庵が開基創建す。當時は、野毛浦の海邊に崛起したる日和山の巓にありて、初め臨江寺と稱せしが、永祿十六年、海嘯の為めに、家屋多く流失して、他所に轉居す。因て、該寺も自ら荒廢に屬せしを、正德年閒、僧淸雲なる者、字、瀧ノ下に小堂を建立し、臨江を改め、林光寺と呼ぶ云々。」とあるが、その出所は甚だ疑はしく、新編武藏風土記稿には「保土ヶ谷宿ノ内、岩閒町、福壽院、隱居所ナリ。通峯山ト號ス。北條役帳ニ富部、臨江寺トアレバ永祿ノ頃ハ、臨江ノ文字ヲ用ヒシニヤ。又、モトヨリ林光ト書シナレド、字音同キヲ以テ、役帳ニカク記セシモ知ベカラズ。或說ニ、當寺開山ハ、明心和尙ト云。開基ハ、八木九兵衞正重ナリ。此人、今川氏眞ニ仕へ、彼家沒落ノ後、浪人トナリ、御入國ノ時、長谷川七左衞門長綱二屬シテ關東ニ下リ、其後、召出サレ、金澤ノ御代官ヲ命ゼラルト云。若、然ラバ天正十八年以後ノ造立ナレべ役帳ニ載ル臨江寺ニハ、アラズ。今、住僧モナケレバ、探索ニ由ナシ云々。」とある。而し。元祿の戸部村明細帳には、臨江寺除地五畝二十六步と載せ、風土記稿所載の林光寺除地五畝二十六步と全く符合する所から見れば、臨江・林光は全く同一寺であると考へて間違はない。戸部甚内の記した戸部記錄といふものには、臨江寺は、寬元年中、戸部民部大輔が勅を蒙つて建立した所であるが、應仁年中、兵火に罹つて退轉に及んだのを、其後、天文年中、國主、山本大膳丞定國が其廢跡に一寺を起したのが、大聖院であると述べてあるけれども、永祿の北條役帳にも、元祿の村明細帳にも、臨江寺の名が載せてあるのを見れば、前記の甚内の記錄は信を措き難いので、北條役帳に、柚井領 北條氏照、領。七十二貫四百二十三文、富部臨江寺分とあるのから見れば、當寺の創立は恐らく小田原北條氏分國の時代で、相當の名刹であつた樣に思はれる。その開山を明心和尙と云ひ、開基を八木九兵衞正重と稱するのは、蓋し中興と見て差支はあるまい。寺傳に據れば。「往昔、野毛浦の嶺 今の野毛山不動堂邊。に一寺を存在せり。これを通峯山臨江寺と稱する旨、世人の口傳殘れり。臨江寺と稱せしは、江に臨むの意味にて、寺號となせるものならんと云ふ。其後、野毛町三丁目に移轉せるは、慶長五年庚子五月なりと云ふも、其開基不詳。然れ共。本山及び本寺に保存せる中世以後の記錄に依れば、慶長五年、野毛浦の人民胥議し、一宇を今の野毛町三丁目の邊に創建し、當寺の故本寺たる福聚寺四世、文山元虎和尙を請じ、創建開山たらしむるの事蹟、明かなり。文山和尙は、寬永三丙寅九月廿口示寂す云々」とあり、幕末の頃は、僅に二間に三間の草堂を存するのみで、住僧もなく微微たるものであつたが、開港以來、多少の檀徒も增加したので、漸く一寺の體裁をなすに至つた。而かも尙、維持困難を脫することが出來かねたので、舊本寺の福聚寺及び檀徒協議の上で、現本山の建長寺の直轄となり、同年十月、當寺を以て建長寺の出張所となし、大に布敎に力めたので、漸く寺運も發展の端緖を得たが、堂宇は狹隘、四境は熱閙精舍を置くの地ではなく、曩きに買得した久保町の地は、高燥且つ閑靜であるので。明治二十二年の五月に、こゝに伽藍を建てて、其竣成を俟つて、翌二十三年三月に移轉した。是れが現今の寺境である。越えて三十二年、總門を建設し一層の莊嚴を加ふるに至つたが大正十二年九月一日の大震災に、本堂が倒潰したので、やがて假堂を營んだ。それが現在の建物である。(「横浜市史稿 佛寺編」より)


林光寺の周辺図

参考資料

  • 横浜西区史(西区教育委員会)
  • 新編武蔵風土記稿
  • 「横浜市史稿 佛寺編」

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿