東観寺。横浜市緑区東本郷にある高野山真言宗寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

瑞照山東観寺。旧小机領三十三所子歳観音霊場、武相寅歳薬師如来霊場

東観寺の概要

高野山真言宗寺院の東観寺は、瑞照山慈眼院と号します。東観寺の創建年代等は不詳ながら、天平年間(奈良時代)に行基菩薩が当地を巡錫した際に観音堂を安置して草創したといいます。延暦年間(平安時代)には快圓が堂宇を修造、その後廃寺となったものの、小机城主笠原越前守信爲が開基となり、法印義印(慶安5年1652年寂)が再興、法印義印を開山とするといいます。慶安2年(1649年)には江戸幕府より観音堂領として、寺領5石5斗の御朱印状を拝領したといいます。旧小机領三十三所子歳観音霊場32番、武相寅歳薬師如来霊場24番です。

東観寺
東観寺の概要
山号 瑞照山
院号 慈眼院
寺号 東観寺
本尊 不動明王像
住所 横浜市緑区東本郷1-21-1
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 -



東観寺の縁起

東観寺の創建年代等は不詳ながら、天平年間(奈良時代)に行基菩薩が当地を巡錫した際に観音堂を安置して草創したといいます。延暦年間(平安時代)には快圓が堂宇を修造、その後廃寺となったものの、小机城主笠原越前守信爲が開基となり、法印義印(慶安5年1652年寂)が再興、法印義印を開山とするといいます。慶安2年(1649年)には江戸幕府より観音堂領として、寺領5石5斗の御朱印状を拝領したといいます。

新編武蔵風土記稿による東観寺の縁起

(本郷村)東観寺
境内寺領の内、村の西鴨居村の界ひにあり、古義真言宗にてこれも三會寺の末山なり、瑞昭山慈眼院と號す、慶安二年八月十七日、村内にて五石五斗餘の地を御寄附の御朱印を賜ふ、其文に観音堂領とみえられば、この五石餘は今の境内にたてる観音への御朱印地なり、縁起を閲るに、天平編中行基菩薩この地を過りし頃、正観音を彫刻し、且精舎をつくりて、しばらく棲息せしより住僧もたへず、延暦年中快圓と云僧の住せし頃堂宇を修造せり、夫より後廢寺となり、法印義印と云ものふたたび興起せり、この義印は慶安五年某月朔日化す、今はこの僧を以て開山とせり、この餘等海義繼など云僧も功徳ありしと云り、後再び衰微せしとき、天文十二年住侶誓海再建の願ひを起せしかば、笠原信康・笠原信康・長谷川爲久等財をすてて興復せりとあり、又客殿に安する處の開基の位牌を云ものあり、これを見るに小机の城主笠原越前守信爲が位牌にして、乾徳院雲松道慶、明應四年六月八日卒すと記せり、按るに信爲は今開山とする所の義印とは、年代百年ばかりをへだてり、恐くは縁起にいへる信康は、信爲が子にして、此人當寺を再造せしくは、信爲が菩提の爲にせしなれば、おして信爲を以て開基とせしなるべし、本尊は不動の立像、長二尺五寸ばかり、客殿七間四方巽向なり。
寺寶
不動尊一幅。鳥羽院の宸翰なりと云、絹長三尺二寸幅一尺一寸ばかり、上に弘法大師肉筆の経文の切を押てあり。
文殊像一幅。弘法大師の筆なりと云、獅子に耒し像にして、梵字にて其形をつくりし繪様なり、長さ四尺幅一尺二寸ばかり。
四所明神像一幅。長さ三尺三寸ばかり、幅一尺一寸九分、これも弘法大師の筆なりと云。
駒玉一顆。大さ鶏卵の如し。
貝化石二顆。
小刀一本。行基菩薩の佛像を彫刻せし小刀なりと云。
鐘樓。客殿に向て右の方にあり、鐘は明和五年紀州高野山にて鋳し所のものなりと云、銘文もあれど略せり。
観音堂。客殿に向て左の方山上にあり、三間四方巽向なり、本尊聖観音、長一尺餘の立像なり、行基菩薩の作なり、當寺の寺領もとより観音堂の領なることなど前に辨せしが如し、堂の前に碑石立り、寛文年中三浦佐十郎義正と云もの、其父母の爲に營みしものなり。(新編武蔵風土記稿より)


東観寺所蔵の文化財

  • 俗体男女並坐像浮彫墓標(横浜市指定有形文化財)

印融法印墓

この墓標は、正面唐破風屋根付の位牌型墓標で、俗体の男女像が浮彫されています。
刻銘によれば、男女は桓武天皇二十九代で三浦氏を名のる由緒ある家系の夫妻で、亡夫の墓標を造立するに当り、妻は逆修宇(生前に仏事を行うこと)して連理の契りをあらわしたものであることが知られます。
墓標に俗体像を彫刻する例は非常に珍しく、石彫技術も秀逸で、江戸時代前期の特異な石造遺品として注目されます。(横浜市教育委員会掲示より)

東観寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿