宗興寺。ヘボン博士施療所、横浜三十三観世音霊場、旧小机領三十三所子歳観音霊場

猫の足あとによる横浜市寺社案内

開塔山宗興寺。横浜市神奈川区幸ヶ谷にある曹洞宗寺院

宗興寺の概要

曹洞宗寺院の宗興寺は、開塔山日輪院と号します。宗興寺の創建年代は不詳ですが、伊豆海島風土記によると永享12年(1440)に神奈川宿開塔山宗興寺から住職を請うて八丈島宗福寺を創建したとあり、その開塔山宗興寺については当初真言宗だったが臨済宗に宗旨を改めていたと記載しており、古くより存在していたと考えられています。随翁永順(慶長17年寂)が開基となり曹洞宗寺院として創建、江戸末期の横浜開港時にはヘボン式ローマ字で知られるヘボン博士が、当寺に施療所と開いていたといいます。横浜三十三観世音霊場15番、旧小机領三十三所子歳観音霊場8番です。

宗興寺
宗興寺の概要
山号 開塔山
院号 日輪院
寺号 宗興寺
住所 横浜市神奈川区幸ヶ谷10-6
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



宗興寺の縁起

宗興寺の創建年代は不詳ですが、伊豆海島風土記によると永享12年(1440)に神奈川宿開塔山宗興寺から住職を請うて八丈島宗福寺を創建したとあり、その開塔山宗興寺については当初真言宗だったが臨済宗に宗旨を改めていたと記載しており、古くより存在していたと考えられています。本覺寺第五世朝鑑秀賀が寛文年間(1661-1672)曹洞宗に改めて、江戸末期の横浜開港時にはヘボン式ローマ字で知られるヘボン博士が、当寺に施療所と開いていたといいます。

新編武蔵風土記稿による宗興寺の縁起

(神奈川宿青木町)宗興寺
瀧の川の上にあり。曹洞宗宿内本覺寺末、開塔山日輪院と号す。開基随翁永順慶長17年8月21日寂せり。按に伊豆海島風土記に、八丈島宗福寺の縁起を載て云。永享の頃武州神奈川と更易の事始るにより、同き12年神奈川の宗興寺を請待して住職とす。その後僧浮跡まで四代は宗興寺より僧徒来て相続すと。南方海島志に、金川開塔山宗興寺今は臨済宗なり。住僧の話に昔は真言宗なりしが、三度所をかへその後中絶して旧記皆失せり。八丈島往来の事もわづかに口碑に傳ふるのみなりと。これによればもとより古き寺院にて、永順は中興開基なるべし。因みに云奥山宗麟がこと、或は相州の人にて家号を神奈川といひしともいへり。されど宗興寺と同所にしるせしによれば、当所の人なるべし。他の記録なければその詳なることをしらず。暫く八丈島のことをしるせしものによりて考ふるに宗麟は上杉家に属せし人にて、永享より文明の頃までも当所の地頭なりしなるべし。しばらく記して後考をまつのみ。当寺昔は神奈川宿の内荒宿にあり、それより同所浜宿に移り、後に今の地に移されしも、また慶長年中のことなりと。海島志に三たび所をかへしと云者これなるべし。又この地へ移りし時のことにや、台徳院殿より御殿をたまはりて本堂を作りしが、これも先に回禄にあひて烏有となりしといふ。客殿6間半に5間半南向なり。本尊華厳釈迦坐像にして長1尺5・6寸ばかり。定朝の作と云。この本尊夢想なりとて、黒焼の薬を製して病者に与ふ。門は東向なり。
井。客殿の前にあり。相傳ふ台徳院殿御上洛の時、当所の御殿へわたらせ給ひし頃御茶の水に用られしと云井なり。
観音堂。門を入て正面にあり。3間四方、東向なり。元禄14年僧栄補建立せり。或はこの時再興にて堂は猶ふるくよりありしとも云観音の立像は長5寸9分毘首羯摩の作なり。この地は権現山のつづきにて高き所なれば、堂前に石階百六級あり。昔北条の家人間宮四郎左衛門と云ものの砦ありし所なりと云。小田原記永正7年上田蔵人入道が権現山へたて籠りし時、7月10日の合戦に神奈川の住人間宮某と名乗て切て出しとあり、又他の書にこのことを引て間宮彦次郎としるせしもあれば、かの小田原記に某とかきしも彦次郎がことにして、後に豊後守信盛と云し人なるべし。此四郎左衛門も其一族の内にて、此所に居しならん。この堂の地は境内に属すれども、除地の外なりと云。(新編武蔵風土記稿より)

「神奈川区史」による宗興寺の縁起

市内観世音三十三所の第十五番。小机三十三霊場の八番。
創建の年代は不明だが、宝徳二年(一四五〇)九月二一日附の鎌倉八幡宮関係文書に寺名が記されているので、その起立は古い。はじめ真言宗であったが、本覺寺第五世朝鑑秀賀が寛文年間(一六六一~一六七二)当寺に入り曹洞宗に改宗したといわれる。
真言宗の時代、永享一二年(一四四〇)頃から八丈島の宗福寺の招請によって五代にわたって、宗福寺に住職として渡海していたという。
寺伝に随翁氷順(慶長一七年八月二一日寂)が開基になっているが、『新編武蔵風土記稿』では永順は中興の開基であろうと説いていて、宗興寺は宿内の荒宿から浜宿と移転し慶長年中に現在地に移転したという。
元和年中、二代将軍徳川秀忠から御殿の贈与を受けて本堂を建立したが何時の時代か火災にあって、全てを焼失してしまったという。
嘉永二年に再度火災にあい、安政二年に再建した。
開港の頃、名医セメンズが寄寓し、ヘボン博士が当寺に治療所を聞いたこともあった。
神祭川台場の築造にあたって裏山を崩して埋土に利用したため山上にあった観音堂を境内に移した。大正十二年九月一日の大震災に一山焦土となったが直後仮堂を建築した。(「神奈川区史」より)

「横浜市史稿」による宗興寺の縁起

宗興寺
位置及寺格
宗興寺は、開塔山 (元、日輪院と唱ふ。)と號し、神奈川區靑木町字橫町三百二十九番地にある。境内は四百十三坪。官有地。同所本覺寺の末寺で、二等地二十九級である。
沿革
當寺創立の年代は不明であるが、寶德二年九月二十一日附の鎌倉八幡宮關係文書に、當寺の名が著れて居る事(政治編一第三章を參照。)から推せば、其起立の古いことが知られる。永享十二年、八丈島の宗福寺の招請によつて、當寺の僧が彼寺の住職となり、爾來四代もこれを繼承したと、伊豆海島風土記に見え、又昔は眞言宗であつたが、三度所をかへて中絕し、其後禪宗となつたこと、南方海島志に載すと新編武藏風土記稿に引用してゐる。寺傳には、隨翁永順(慶長十七年八月二十一日寂。)が開基となつてゐるが、永順は中興の開基であらうと、新編武藏風土記稿は說き、又、昔は神奈川宿の内荒宿にあり、それより同所濱宿に移り、慶長年中、更に今の地に移つたとも記してある。元和年中、德川二代將軍秀忠から御殿の施入を得て、本堂を造立したが、其後囘祿に遭つて烏有に歸したと云ふ。寬文の頃、朝鑑秀賀が中興して、曹洞宗に改め、本覺寺の末寺と爲した。文政の頃は、六間半に五間半の客殿を具へて居たが、嘉永二年に燒失し、安政二年に再建した。開港の當時は名醫セメンズが寄寓し、又、彼のヘボン博士も其治療所を當寺内に開いたことがある。其頃神奈川砲臺築造の爲め、境内の居山を崩し採られたので、山上にあつた觀音堂を山下に移した。大正十二年九月一日、大震火災に罹り、一山焦土と化した。直後、假堂を營んで今日に及んでゐる。
本尊
本尊は聖觀世音菩薩の坐像で、長一尺八寸。元は傳、定朝作、長一尺五六寸の釋迦の坐像が安置してあつたが、嘉永の火災に燒失したと云ふ。(「横浜市史稿」より)

「神奈川区宿歴史の道」掲示による宗興寺の縁起

宗興寺とヘボン博士
曹洞宗宗興寺は、上の「神奈川駅中図会」では権現山の麓に描かれている。
開港当時、アメリカ人宣教師で医者であったヘボン博士がここに施療所を開いた。これを記念する石碑が境内にたてられている。
このヘボン博士は、「ヘボン式ローマ字」でよく知られ、日本で最初の和英辞典を完成し、聖書の翻訳なども行った。後に、明治学院を創設するなど、我国の教育にも尽力した人である。(「神奈川区宿歴史の道」掲示より)


宗興寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「神奈川区史」
  • 「横浜市史稿」