成佛寺。横浜市神奈川区神奈川本町にある浄土宗寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

正覚山成佛寺。旧眞言・佛心・律・淨土の四宗兼帯寺院、アメリカ人宣教師の宿舎

成佛寺の概要

浄土宗寺院の成佛寺は、正覚山法雨院と号します。成佛寺は、僧覚心(俗称常澄氏、永仁6年1298年寂)が開山となり創建、眞言・佛心・律・淨土の四宗兼帯寺院だったといいます。覚心は、没後亀山天皇から法燈国師と謚名を与えられた他、後醍醐天皇からは円明国師と謚名を与えられた名僧です。応永年間には、後小松院から院号を与えられ、深厚山後小松院成佛寺と号していたと言います。また、徳川家康入国の際には慶長年間に寺領10石の朱印状を拝領、徳川三代将軍家光の上洛に際し、宿泊所の神奈川御殿造営のため寺地を現在地へ移転したといいます。安政6年(1859)の開港当初はアメリカ人宣教師の宿舎に使われていました。

成佛寺
成佛寺の概要
山号 正覚山
院号 法雨院
寺号 成佛寺
住所 横浜市神奈川区神奈川本町10-10
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 かつてアメリカ人宣教師として供用



成佛寺の縁起

成佛寺は、僧覚心(俗称常澄氏、永仁6年1298年寂)が開山となり創建、眞言・佛心・律・淨土の四宗兼帯寺院だったといいます。覚心は、没後亀山天皇から法燈国師と謚名を与えられた他、後醍醐天皇からは円明国師と謚名を与えられた名僧です。応永年間には、後小松院から院号を与えられ、深厚山後小松院成佛寺と号していたと言います。また、徳川家康入国の際には慶長年間に寺領10石の朱印状を拝領、徳川三代将軍家光の上洛に際し、宿泊所の神奈川御殿造営のため寺地を現在地へ移転したといいます。安政6年(1859)の開港当初はアメリカ人宣教師の宿舎に使われていました。

新編武蔵風土記稿による成佛寺の縁起

成佛寺
往還の北側なり。浄土宗にて京都知恩院の末山なり。正覚山法雨院と号す。縁起の略に云、開山は入宋弘法の沙門にて、諱は覚心と云、信州神林縣の人なり。俗称は常澄氏、永仁6年10月13日紀州海部郡由良庄鷲峯山興国寺にして寂す、年九十二。亀山院勅して法燈国師の郷を賜へり。又三十三年の忌辰にあたりしとき、元徳2年後醍醐天皇より又円明国師の勅諱を賜はる。国師は真言佛心律浄土の四宗を兼学して、その奥に至りしことは元享釋書等に詳なり。当寺昔は深厚山後小松院成佛寺と号せり。紀州高野の芽堂と一派にして、歴世名の字の首に覚の字を冠らず。これ開山国師の諱を覚心と号せしによれり。又深厚山成佛寺と号することは、そのよりて起る故をしらず。されど高野の芽堂もまた国師の開闢にして、かしこをも深厚山成仏院と号せり。又名の字の上に覚の字を置も全く当寺と同じければ、ここにうつせしことその故あるべきか。ただし山号寺号の起る所も別に故あるべし。又後小松院と号する由来を尋るに、人皇百一代後小松院の御宇近郷師岡の熊野権現へ勅願所の宣旨を下し賜はり。師岡村内十二箇郷を神供に寄附せられて、御渇仰浅からざりしあまり、十二郷の中所々に散在せる僧院十二所を撰びて、社務と定めらる。当寺その随一たるにより、後小松の号を賜はりて院号とせり。御入国の後慶長年間御改ありて、寺領10石の御朱印及境内3町四方の地を賜はれり。その頃までも四宗兼学の寺院なりしが、改めて浄土一宗となり、京都知恩院の末寺となれり。これより今の山号寺号に改めしと云々、此後寛永年中御殿御造立の時、寺領を召し上られ寺の脇字廣前と云所にて2640坪の代地を賜りしと云。
寺宝。
時計一。碁盤一面。右いづれも北条左京太夫氏直寄附の品なりとて今に傳へり。
古文書四通。(中略)
熊野社。門に入て右にあり。境内の鎮守とす。2間に2間半の社なり。神体は2尺許の立像を木にて作れり。天神稲荷の二座を合祀す。例祭は年々6月8日なり。前に石の鳥居をたつ。
稲荷社、熊野社の脇にあり。
庚申堂、同邊にあり、小祠なり。
地蔵堂、本堂に向て左にあり。
塔頭。
見松院、門を入て右にあり。
福泉院、左の方にあり。
春正廃院、この院昔住僧本誉の時廃せり。庭に千貫松千貫石とて氏直寄附の松樹及石あり。此下にのする皆廃院なり。
宝樹院、同時に廃せり。
良心院、これも同じ。
良徳院、超誉の代に廃せり。(新編武蔵風土記稿より)

「神奈川区史」による成佛寺の縁起

永仁年中(一二九三~一二九八)法灯国師が開基して、深厚山と称し、真言・仏心・律・浄土の四宗を兼ねたが、応氷年中(一三九四~一四二七)後小松天皇が師岡の熊野権現に保内十二カ郷神領寄進の宣旨を下され、保内の寺院十二カ所を選んで社務に定められたとき、当寺をその随一に置き後小松院の院号を賜はったという。
天正一八年四月豊臣秀吉が当寺門前に保内十二郷の禁制を出した。
慶長年中、徳川家康は、一〇石の御朱印と、境内地三町四方を寄進した。次で四宗兼学から浄土宗一宗に改め知恩院の直末となった。これは、元和九年三代将軍家光の命によったという。
寛永七年(一六三〇)徳川氏が神奈川御殿を造立するため、当寺の境内を、その敷地に定め、その代地に寺側の広前に、二、六四〇坪が下されたので移転したのが現在の地域である。その頃は塔頭六坊を持った大寺であった。
然し享保二年(一七一七)闡誉霊察和尚の代に至ってやうやく本堂が竣工した。塔頭は宝氷四年までに四坊が、明治初年に残る二坊が廃絶している。境内にあった鎮守熊野社は明治維新の際、神仏混淆禁止令によって分離した。横浜開港後、アメリカの宣教医ヘボン博士や、宣教師ブラウン、バラ等が仮寓した。(「神奈川区史」より)

「横浜市史稿」による成佛寺の縁起

成佛寺
位置及寺格
成佛寺は、正覺山法雨院と號し、神奈川區飯田町八百二十四番地にある。境内は一千百十一坪。官有地。東京芝增上寺末で、獨禮八等中本寺格である。
沿革
永仁年中、法燈國師の開基した所で、元は深厚山と稱し、眞言・佛心・律・淨土の四宗を兼ね、紀州高野山の茅堂と同派であつたと云ふ。應永年中、後小松天皇が師岡の熊野權現へ保内十二箇鄕神領御寄進の宣旨を下され、兼ねて保内の僧院十二所を選んて社務に定め給うた時、當寺を其隨一に置き、後小松院の院號を賜はつたと云ふ。天正十八年四月、豐臣秀吉が當寺門前に保内十二鄕の禁制を出した。慶長年中、德川家康は寺領十石、竝に境内地三町四方を寄進した。次で淨土の一宗に歸屬し、京都知恩院の直末となり、山號・院號をも今の如く改めた。但し淨土宗本末寺院明細帳には「中興萬公、元和九癸亥年、德川家光公之依レ命、淨土宗ニ改宗、知恩院直末トナル。住職代々香衣勅許。」と見え、過去帳には「歸二淨土一中興心蓮社本譽上人呑無大和尙、慶安四辛卯九月十九日寂」と記し、神奈川砂子には、寬永年中、本譽上人の代、改宗と載せてあり、其傳へが一定せぬ。寬永七年、德川氏が神奈川御殿を造立するにあたり、當寺の境内を用地に收め、其代地として寺側の廣前に於て、二千六百四十坪の地の附與があつたので現地に移轉を行うた。卽ち過去帳の末に「本寺本堂、寬永七年迄は今の御殿地の所にあり。塔中六坊、御殿番屋敷の所にあり。寬永七年、御殿地に被一召上一、本堂・自坊・塔中・門前不レ殘引移云々。」と記してある。元祿年中、至譽上人が伽藍の再建を企て、先づ自坊の落成を果した。享保二年、闡譽上人が其遺志を繼いで、本堂の竣工を遂げた。開港當時は、ヘボン博士及び宣敎師ブラウン、バラー等の假寓となつた。慶應三年に、庫裡及び鐘樓の造立が出來た。寺内には元、塔中六坊があつたが、其中春正院・寶樹院・良心院は、寬永六年乃至慶安四年の間に廢絕し、良德院は慶安四年から寶永四年迄の間に廢絕し、見松院・福泉院も亦明治の初年に廢絕に歸した。往時は境内に鎭守熊野社もあつたが明治維新の際、神佛混淆禁止により境内を割いて分離した。 
本尊
本尊は阿彌陀三尊、其中尊は坐像、兩脇侍は立像である。(「横浜市史稿」より)

「神奈川区宿歴史の道」掲示による成佛寺の縁起

成佛寺は、鎌倉時代の創建と伝えられる浄土宗の寺である。徳川三代将軍家光の上洛に際し、宿泊所の神奈川御殿造営のため寺地が現在地に移された。
安政6年(1859)の開港当初はアメリカ人宣教師の宿舎に使われ、ヘボンは本堂に、ブラウンは庫裡に住んだという。ヘボンはヘボン式ローマ字で知られ、日本最初の和英辞典を完成した。また、ブラウンは聖書や賛美歌の邦訳に尽力した。(「神奈川区宿歴史の道」掲示より)


成佛寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「神奈川区史」
  • 「横浜市史稿」