笠のぎ稲荷神社(禾皇)|横浜市神奈川区東神奈川の神社

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笠のぎ稲荷神社(禾皇)|天慶年間に稲荷山の中腹に創祀、笠脱稲荷、旧村社

笠のぎ稲荷神社(禾皇)の概要

笠のぎ稲荷神社(禾皇)は、横浜市神奈川区東神奈川にある稲荷神社です。笠のぎ稲荷神社(禾皇)は天慶年間(938-947)に稲荷山の中腹に創祀、元寇に当たっては北條時宗より神宝を奉納されたという古社です。元禄2年(1689)山麓に遷座、社前を通行する者の笠が自然に脱げ落ちるということから笠脱稲荷大明神と呼ばれたと伝えられます。社地が鉄道敷設用地となり、明治2年に当地へ遷座、明治17年村社に列格していました。

笠のぎ稲荷神社(禾皇)
笠のぎ稲荷神社(禾皇)の概要
社号 笠のぎ(禾皇)稲荷神社
祭神 宇迦之魂命、明治天皇、日本武尊
相殿 -
境内社 古峯神社 祖霊社
住所 横浜市神奈川区東神奈川2-9-1
祭日 例大祭8月9日に近い土・日曜日
備考 旧村社



笠のぎ稲荷神社(禾皇)の由緒

笠のぎ稲荷神社(禾皇)は天慶年間(938-947)に稲荷山の中腹に創祀、元寇に当たっては北條時宗より神宝を奉納されたという古社です。元禄2年(1689)山麓に遷座、社前を通行する者の笠が自然に脱げ落ちるということから笠脱稲荷大明神と呼ばれたと伝えられます。社地が鉄道敷設用地となり、明治2年に当地へ遷座、明治17年村社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による笠のぎ稲荷神社(禾皇)の由緒

(神奈川町)笠脱稲荷社
新町の裏稲荷町にあり。9尺四方巽向なり。前に木の鳥居とたつ。相傳ふ昔土人笠を戴きて社前を過るときは、おのづからぬけて地に落ると云。故にこの名ありと。をぼつかなき説なり。(新編武蔵風土記稿より)

「神奈川区史」による笠のぎ稲荷神社(禾皇)の由緒

天慶年間(九三八~九四七)の草創といわれ、文水十一年、蒙古の来襲のおり、鎌倉の執権、北条時宗は、菊一の銘刀と神鈴を神前に奉納して国家の安泰を祈った。その後、東国の戦乱に遭遇して兵火に罹災してしまったが、永禄二年九月十九日に再興なって大祭を行なったと伝えられてる。
往昔は稲荷山の中腹にあったが、元禄二年九月十九日現在地に遷座した。
元は笠脱稲荷大明神と称した、それは社前を通る笠をかむったままであると、笠が自然に地に落ちたという話しから出た呼称と思はれる。江戸時代別当能満寺の僧が、かさのぎの文字に改めたという。
神仏分離のおり神社と改称し別当を離れた。明治五年現在の境内地に移ったのは、旧社地内が、東京・横浜間の鉄道敷設用地になったためである。
明治一七年九月二五日村社となり、大正一〇年九月一七日神饌幣帛料供進社に指定された。大正一二年九月一日大震災には社殿が半壊に及んだが、直後復興をなしとげた。(新編武蔵風土記稿より)

「神奈川区宿歴史の道」掲示による笠のぎ稲荷神社(禾皇)の由緒

笠のぎ(禾皇)神社は、社伝によると天慶年間(938-947)に稲荷山の中腹に創祀され、元寇に当たっては北條時宗より神宝を奉納されている。元禄2年(1689)山麓に移られて、霊験ますますあらたかとなり、社前を通行する者の笠が自然に脱げ落ちるということから笠脱稲荷大明神と称された。後に笠のぎ(禾皇)稲荷神社と改称され、明治2年に現在地に遷座された。
また、この神社に土団子を供えれば病が治るとの特殊信仰もある。お礼に粢(ひとぎ)団子を供えるという。(「神奈川区宿歴史の道」掲示より)


笠のぎ稲荷神社(禾皇)所蔵の文化財

  • 板碑(横浜市指定有形文化財)

板碑

通称「稲荷山」と称した山の麓に位置していましたが、明治初期に現在地に移されました。碑の形態は頭部を三角形とし、その下部には二条の深い切り込みが施され、身部は枠線によって長方形に区画されています。身部の上位には阿弥陀如来をあらわす種子「キリーク」を、中位には天蓋を配し、その下位中央には、六字名号「南無阿弥陀仏」の梵字が薬研彫りで力強く刻まれています。
本板碑は阿弥陀を主尊とする板碑ですが、天蓋を配した六字名号と一対の塔を刻した特異な板碑で、本碑に見られるような変形五輪塔を刻す板碑は極めて少なく、中世の墓制を知るうえで貴重な資料です。(横浜市教育委員会掲示より)


笠のぎ稲荷神社(禾皇)の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「神奈川区史」
  • 「神奈川県神社誌」