住吉神社|青梅市住江町の神社、旧郷社

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住吉神社|延命寺の開山季竜が故郷住吉大社の神を勧請、旧郷社

住吉神社の概要

住吉神社は、青梅市住江町にある神社です。住吉神社は、応安2年(1369)延命寺の開山季竜が同寺創建にあたり、寺背にあたる当地に、故郷摂津国住吉大社の神を勧請したといいます。青梅村の鎮守社として三田弾正氏宗、政定父子の崇敬を篤め、明治6年村社に、明治12年郷社に列格していました。

住吉神社
住吉神社の概要
社号 住吉神社
祭神 上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命、神功皇后
相殿 -
境内社 稲荷神社、松尾神社、八坂神社、厳島神社、八幡神社、菅原神社、大鳥神社
住所 青梅市住江町12
祭日 例大祭4月28日
備考 -



住吉神社の由緒

住吉神社は、応安2年(1369)延命寺の開山季竜が同寺創建にあたり、寺背にあたる当地に、故郷摂津国住吉大社の神を勧請したといいます。青梅村の鎮守社として三田弾正氏宗、政定父子の崇敬を篤め、明治6年村社に、明治12年郷社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による住吉神社の由緒

(青梅村)住吉明神社
社地除、一段三畝廿七歩、小名笹門にあり、本社六尺四方、彩色の彫刻あり、幣殿二間に二間半、拝殿二間に五間半、神體木像長一尺餘、本地十一面観音、傳教大師の作、もと村内延命寺の本尊、故ありて當社に納めて本地佛とす、社前に凡九十級の石階あり、村内の鎮守、例祭毎年三月廿七八の兩日を用ゆ、村内修験吉祥院持。
末社。辨天祠、稲荷祠、共に小祠。(新編武蔵風土記稿より)

東京都神社名鑑による住吉神社の由緒

応安二年(一三六九)延命寺の開山季竜が同寺創建にあたり、寺背の稲荷山(現住吉神社鎮座地)に、故郷摂津国住吉大社の神を勧請した。社地は市の中心、一堆の離れ山で、往古稲荷山と称していたが永正十年(一五一三)、三田弾正氏宗、政定父子が拝殿を再築、種々の神宝を奉納し、青梅村総鎮守となしたときに三月二十八日を祭日とした。(明治五年、太陽暦採用により四月二十八日となる)慶長十八年(一六一三)、拝殿が雷火で焼失、ために社宝社記の類は烏有に帰した。しかし、本殿は千木、梁等わずかに焦損したのみで、その災をまぬかれた。正徳六年(一七一六)社殿造営。文政七年(一八二四)幣・拝殿が現在の広壮な建物に再建された。この時の資金は村内はもとより、近郷のみならず青梅縞の取引先、江戸方面の豪商たちからも寄せられたことが当社所蔵の『住吉宮拝殿勧化帳』によって知ることができる。明治三年、従来の住吉大明神を住吉神社と改称する。(東京都神社名鑑より)

「青梅市史」による住吉神社の由緒

住吉神社
旧青梅地区の住江町稲荷山に鎮座する。祭神は上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命、神功皇后で、例祭は四月二十八日である。
創建は社伝によると、応安二年(一三六九)。延命寺の開山季竜が同寺創建に当り、寺背の稲荷山に寺門守護のため、季竜の故郷、摂津国の住吉明神を祀ったのに始まると伝える。社地は市街のほぼ中心に突起した良形の山で、往古は稲荷山と呼んだ。
永正十年(一五一三)、三田氏宗・政定父子および氏子の寄進によって、社殿を改修したり、社宝を奉納し、三月二十八日を期して青梅村の氏神として祀ったという。明治五年に陽暦が用いられるようになり、今日の四月二十八日となった。なお、十二台の山車の巡行は五月二日三日の両日に行われている。
慶長十八年(一六一三)、落雷により幣殿、拝殿が焼失し、同時に社記録・社宝などを失った。しかし本殿は千木、梁などわずかに焼損しただけで残った。残存する棟札によると、正徳六年(享保元年・一七一六)社殿の建造、そして文政七年(一八二四)に現在見られるような幣殿、拝殿が再建された。この時の資金は「住吉宮拝殿勧化帳」 によると村内はもとより、近郷や青梅縞の取引き先や、江戸方面の豪商からも寄進されたことがわかる。明治三年、従来の住吉大明神を住吉神社と社号を改め、明治六年に村社、続いて同十二年に郷社に列格した。拝殿天井の小林天淵の筆、雲竜図は市有形文化財に指定されている。本殿は桃山(慶長)時代の建造と推定されている。平成二年に幣殿、拝殿の修復、続いて参集殿の造営が行われ、平成六年四月十九日竣工した。境内は市史跡に指定されている。境内面積は一六〇八・九二坪(五、三〇九平方メートル)である。(「青梅市史」より)


住吉神社所蔵の文化財

  • 市史蹟住吉神社(青梅市指定旧跡)
  • 雲竜図(青梅市指定文化財)
  • 笥大納言隆望卿女歌碑
  • 根岸典則碑
  • 小林天淵筆塚

市史蹟住吉神社

応安二年(一三六九)延命寺を開山した季竜が創建と同時に季竜の故郷である摂津国の住吉明神をこの地に祀ったのが始まりと伝えられる。
旧青梅村の総鎮守であり、祭神は上筒男命、中筒男命、底筒男命、神功皇后である。例祭は四月二十八日(江戸時代は三月二十七日、二十八日)、また、五月二、三日には十二台の山車巡行が行われている。
変形春日造(背面入母屋造)の本殿は、正徳六年(一七一六)に建立され、棟札には泉州(大阪府南部)出身の大工名等も記載されており、上方建築の影響がみられる。また、拝殿・幣殿の再建は、文化七年から天保六年頃と推定され、江戸時代に立てられた本殿・幣殿・拝殿が一体として残り、たいへん貴重である。
さらに境内地には、稲荷神社、八坂神社、大鳥神社をはじめ櫛笥大納言隆望卿女歌碑、小林天淵筆塚碑等があり、青梅宿の町人文化の高さを今も伝えている。(青梅市教育委員会掲示より)

雲竜図

この拝殿天井に描かれた雲竜図は、文政七年(一八二四)住吉神社拝殿新築の際、画家小林天淵の筆になるもので、天淵四十七歳のときの力作、彼の代表作ともいうべきものである。
天淵は安永七年(一七七八)青梅仲町に生れ、幼い頃から祖父小峰峯真について書を学び、また学を根岸典則について修めた。酒舗を営むかたわら文墨にしたしみ、詩文は江戸の菊池五山に学び、ことに画は谷文晁について、青梅文晁とも称されている。(青梅市教育委員会掲示より)

笥大納言隆望卿女歌碑

この碑は、笥大納言隆望卿の女(娘)の和歌を、江戸時代に活躍した青梅出身の文人小林天淵の撰文・小林綾繁の書による万葉仮名で
はるかにも ここにうつして すみよしの かみがきふかき めぐみをぞおもふ
と刻んでいる。
裏面には、青梅上町の池田新平によって、天保四年(一八三三)十二月に建立されたとある。(青梅市教育委員会掲示より)

根岸典則碑

この碑は、江戸時代の後期、青梅が生んだ偉大な文化人根岸典則(号は嶰谷)の伝記を、撰文を江戸の著名な文学者、菊池五山、書を青梅出身の文人、小林天淵が書き、典則の門人たちが天保三年(一八三二)に建立したものである。
根岸典則は、宝暦八年(一七五八)に青梅に生まれ、幼少の頃から学問を好み、漢学、古典学、和歌、禅学とその活躍は多彩で、寛政から文化・文政時代の青梅の文芸最盛期のリーダーとなった人です。
天保二年(一八三一)に没し、墓は、市内の宗建寺にある。(青梅市教育委員会掲示より)

小林天淵筆塚

この碑は、江戸時代後期に活躍した青梅出身の画家であり、また書家であった、小林天淵が七十歳のとき、祖父小峰峯真(青梅出身の書家)以来の廃筆を集めてこの地に埋め、その供養として門人一同とともに建てたものである。
篆額を戸川播磨守安清、銘は「江戸繁昌記」などで名高い寺門静軒、書は川上 由である。
裏面には、天淵の筆になる花咲く老梅の図と江戸時代の著名な文学者、菊池五山の詩が刻まれている。(青梅市教育委員会掲示より)

住吉神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 東京都神社名鑑
  • 青梅市史