青梅金刀比羅神社|青梅市本町の神社

猫の足あとによる多摩地区寺社案内

青梅金刀比羅神社|虎ノ門金刀比羅宮を寛政9年勧請

青梅金刀比羅神社の概要

青梅金刀比羅神社は、青梅市本町にある神社です。青梅金刀比羅神社は、村民奥野忠左衛門、田中八百右衛門、田村弥兵衛、奥野弥右衛門、北島五兵衛、榎本半兵衛、北島久三郎等が協力して、寛政9年(1797)元丸亀藩主京極家邸内の金比羅社(現虎ノ門金刀比羅宮)を勧請して創建したといいます。境内の十二方角碑は寛政9年(1797)の造立だといい、青梅市有形文化財に指定されています。

青梅金刀比羅神社
青梅金刀比羅神社の概要
社号 金刀比羅神社
祭神 大国主命、崇徳天皇
相殿 -
境内社 -
住所 青梅市本町556
祭日 4月9日
備考 -



青梅金刀比羅神社の由緒

青梅金刀比羅神社は、村民奥野忠左衛門、田中八百右衛門、田村弥兵衛、奥野弥右衛門、北島五兵衛、榎本半兵衛、北島久三郎等が協力して、寛政9年(1797)元丸亀藩主京極家邸内の金比羅社(現虎ノ門金刀比羅宮)を勧請して創建したといいます。

新編武蔵風土記稿による青梅金刀比羅神社の由緒

(青梅村)金毘羅社
社地年貢地、十二歩許、村の北山嶺にあり、麓より凡そ十折して天王の小石祠あり、それよりなを五折して三十級餘の石階を躋り社頭に至る、本社九尺に一丈二尺、鳥居の傍に東西南北の方位を配し、又近郷勝地の里程を記せし石標を建、近来好事者壺の碑に擬して造りしものと見ゆ、村民彌左衛門持。(新編武蔵風土記稿より)

東京都神社名鑑による青梅金刀比羅神社の由緒

寛政九年(一七九七)、村民奥野忠左衛門、田中八百右衛門、田村弥兵衛、奥野弥右衛門、北島五兵衛、榎本半兵衛、北島久三郎等が協力して、江戸虎の門、元丸亀藩主京極家邸内より勧請し、当地に移して金刀比羅大権現と称し、明治三十四年、金刀比羅神社と改称した。(東京都神社名鑑より)

「西多摩郡村誌」による青梅金刀比羅神社の由緒

金刀比羅大神
雑社。社地縱廿二間三尺、横八間一尺八寸。面積百八十七坪。元標ヨリ寅ノ方、字下町二百廿番戸長小澤彌左衛門從前ノ所有地ニアリ。大國主命、崇徳天皇二柱ヲ祭ル。鎮座寛政九年丁巳年。元金比羅大権現ト稱ス。維新之際社號改替ス。祭日毎月十日ナリ。
八雲大神
末社。社地ハ登路ノ傍岩窟ノ内ニアリ。須佐之男命ナリ。鎮座年月干支詳ナラズ。元牛頭天王ト稱ス。維新ノ際社號改替ス。
七星社
末社。本社ノ東ノ方、些々タル家上ニアリ。祭神未タ詳ナラズ。元七星権現ト稱ス。維新ノ際社號改替ス。
妙見社
末社。本社ノ背ニアリ。石碣高サ二尺五寸、幅一尺七寸五ト。表ニ、北辰妙見頂輪王抱朴童子爾朴童郎、ト彫シタリ。龜臺高サ七寸。
十二方位碑
高サ四尺。十二角ノ石柱上ノ方ニ十二支ヲ彫タリ。(「西多摩郡村誌」より)

「青梅郷土史」による青梅金刀比羅神社の由緒

無格社琴平神社(大社)
小學校裏山金比羅山上にあり。江戸時代末期の創建。
祭神大物主神 崇徳天皇
名勝圖繪に言ふ。金比羅七星權現合社、登口は住吉社地後山にあり。字新地入といふ所より登るなり。村長某持山にて三十年前に勸請せしなり。社九尺二間の土倉造り神體幣帛なり。社の未の方に御供所あり。常に社間の者居住す。樓造にて此樓上より東の方を遠望すれば武蔵野を眼下に望み、眺望たぐひなし。又社前に六角にして高五尺許の石柱あり。六面に遠望する所の名區の方位並里程を刻み少しく多賀城の碑銘に擬するものなり。(「青梅郷土史」より)


青梅金刀比羅神社所蔵の文化財

  • 十二方角碑(市指定有形文化財)

十二方角碑

寛政九年丁巳秋(一七九七)に建立された碑は、安山岩製、頂部が錐形、十二角の柱状で、頂部幅二十二・七センチメートル、台座上の高さは百二十六・七センチメートルである。
柱の一辺は幅六・一センチメートルで十二面の角柱にし、それぞれの方角を示す十二支が漢字で刻まれている。柱部にはその方角に位置する国名、山名などの景勝地と距離を刻んでいるほか、製作にかかわったと考えられる常保寺住職の支兀雪洞、奥野暎貞、榎本糺林など当時の青梅在住の文化人や有力者の名が連ねられている。
『新編武蔵風土記稿』には「壺の碑に擬して」とあることから、宮城県多賀城跡に現存する『多賀城の碑』を念頭において、作製されたものと考えられる。創設当時の設置場所は明らかではないが、もとは金刀比羅神社裏の小さな丘(現存しない)にあったという。
江戸時代中期の青梅の文化を彷彿させる石造遺跡として貴重である。(青梅市教育委員会掲示より)

青梅金刀比羅神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 東京都神社名鑑
  • 西多摩郡村誌
  • 「青梅郷土史」