福王寺|町田市野津田町にある高野山真言宗寺院

猫の足あとによる多摩地区寺社案内

普光山福王寺|野津田薬師堂、武相寅歳薬師如来霊場

福王寺の概要

高野山真言宗寺院の野津田薬師堂は、普光山福王寺と号します。野津田薬師堂は、聖武天皇天平年間に行基菩薩作の薬師如来を本尊とし普光山福王寺と号して創建、新田義貞の兵火に罹り当地に移されたといいます。別当寺華嚴院は、興満聖人(天正4年1576年寂)の代に現在地へ移転、現在も華嚴院が別当を勤めています。野津田薬師堂は武相寅歳薬師如来霊場18番です。

野津田薬師堂
野津田薬師堂の概要
山号 普光山
院号 -
寺号 福王寺
住所 町田市野津田町3424
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 -



野津田薬師堂の縁起

野津田薬師堂は、聖武天皇天平年間に行基菩薩作の薬師如来を本尊とし普光山福王寺と号して創建、新田義貞の兵火に罹り当地に移されたといいます。別当寺華嚴院は、興満聖人(天正4年1576年寂)の代に現在地へ移転、現在も華嚴院が別当を勤めています。

新編武蔵風土記稿による野津田薬師堂の縁起

(野津田村)薬師堂
字暖澤にあり、前にいへる華嚴院の昔の本尊なれば、今も古名を存してこの堂を普光山福王寺と號せり、もとより華嚴院の持にて、この地はその寺領の内なり、縁起の大意に云、當寺は聖武天皇の御宇天平年中の草創にして、本尊薬師は開山行基菩薩の作る所なり、その比華嚴經一部と若干の封戸とを賜はり、勅願所となりて星霜を經しに、中古兵亂のとき兵火にかかりて伽藍以下烏有となり、ただ醫王大士と二脇士の像を餘すのみ、時にたまたま徳行修練の密教を奉ずる僧ありて、有信の道俗をあらため、終に山の側に假殿を造立してこの本尊を安置す、今の福王寺薬師寺是なり、然るに其地幽谷にして、教化に便ならざるにより、住坊を明王寺の舊地にうつす、これ今の華嚴院なり、これより永く秘密の道場となれり、しかのみならず、御打入の後、寺領をたまはりて勤業いよいよ怠ることなしと云々、これその来由のあらましなり、堂の大さ四間四方、東向なり、薬師は木の坐像にて、長二尺ばかり、靈験あらたなればとて、常に人の拝することをゆるさず。(新編武蔵風土記稿より)

「町田市史」による野津田薬師堂の縁起

薬師堂(野津田町)
所在地 町田市野津田町字暖沢。野津田薬師で知られている。もと、もっと北方にあったが、中古新田義貞らの兵火にかかり焼失、現地に移されたと伝える。
宗派 古義真言宗。
山寺号 普光山福王寺。今は周辺が町田市の公園となり公園の池を薬師池とよぶのはすなわち、この野津田薬師のほとりの池の意味であり、古来福王寺池といったのは普光山福王寺の池を意味するのである。
本尊 薬師、座像、長二尺五寸。一木造り。一二世紀末期作。このほかに月光、日光両像(鎌倉時代と推定)と、別に一体、当時の十二神将のひとつとみられる三尺一寸の一木像があるが、惜しくも腐朽がはなはだしい。
開山 行基と伝う。聖武天皇代といい、町田市最古の寺院である。今は、野津田華嚴院管理。
本堂 薬師堂とよぶ。正面五間。奥行四間三尺。三尺の回廊三方につき、二間の向拝あり。入母屋瓦葺木造。明治一六年一〇月再建した。
鐘楼 九尺四面。昭和四七年九月鋳造の梵鐘を掛く。鐘に「南無大師遍照金剛、諸病悉除心身安楽、普光山福王寺別当花厳院」と刻す。
庭樹 公孫樹(イチョウ)の老樹は、明治九年(一八七六)の土砂崩れの土に一丈埋まりてなおありと地人はいっている。(「町田市史」より)

境内栞による野津田薬師堂の縁起

薬師堂の説明
中央におまつりされている御本尊様は、薬師如来様です。お薬師様の右には日光菩薩様が、左には月光菩薩様が脇佛としてまつられています。更に右側と左側に六人ずつ、十二人の神様がまつられています。全部で十五体の彿像がまつられています。
この御堂の薬師如来様は、天平年間(今から約千二百七十年前)に行基菩薩様が彫られたものであると、現存する寺の巻物に記されています。古来よりお薬師様は眼病に御利益のある彿様として信仰されてきました。町田市内にある木で彫られた彿像としては、最も古い彿像である事が認定されて昭和六十二年町田市の文化財に指定されました。
御本尊様は秘佛です。十二年に一度、寅年の四月上旬から五月上旬の一月間だけ扉が開かれ、拝観する事ができます。普段は拝観できませんので、写真を飾ってあります。日光菩薩様と月光菩薩様は、信者さんが彫られたもので素人作りの佛像です。
天井には、墨絵の龍と彩色された二人の天女様が描かれています。描いた人は、ふすま絵や屏風絵で有名な狩野派の絵師、狩野信矩という人です。明治三十年(一八九七)に描かれた事が天井の右の隅に記されています。龍を描く時には、村人が総出で墨をすらされたそうです。どちらの絵も、この御堂の分家である華厳院の広間で描かれた後、この御堂に運ばれてまつられました。
この御堂は、明治十六年(一八八三)に再建されたものです。この御堂の特徴は、彫り物と、総欅造りである事です。又、御堂の中も外も丸柱の上には贅沢に木組みがされています。御堂の中には二匹、外には十三匹の獅子が彫られています。御堂の入口にまりを抱えた獅子が彫られていますが、まりの中の玉は、ころころと動くようにまりの外から彫りぬかれています。御賽銭箱の上の龍の彫り物や外廊下の角の木組みの他、御堂と外柱との間の龍をすかし彫りにした曲がっているえびごうりようは特に素晴しい作品です。どうぞゆっくりご観覧下さい。(境内栞より)


野津田薬師堂所蔵の文化財

  • 福王寺旧園地(東京都指定名勝文化財)
  • 木造薬師如来座像(町田市指定有形文化財)

福王寺旧園地(薬師池公園)

薬師池公園のある野津田村は、古い記録によると野蔦とも書き、戦国時代には北条氏照の支配領域であったことが知られています。
高野山真言宗華厳院は、天平年間(七二九~七四九)行基の開基といわれる寺院です。室町時代末には、荒廃していたのを元亀四年(一五七六)僧興満が暖沢に再興して福王寺薬師堂と称しました。現在、野津田薬師といわれている薬師堂は、福王寺薬師堂のことで、明治十六年(一八八三)に再建されたものです。薬師池は、野津田薬師のほとりの池の意味であり、江戸時代には福王寺溜井といわれていました。
和三十一年(一九五六)に町田市の理容組合によって寄進されたものです。(東京都教育委員会掲示より)

木造薬師如来座像 (秘彿 寅年四月上旬~五月上旬開扉)

薬師堂の本尊である木造薬師如来座像は、欅の一木造りで、頭体幹部を一材から彫成して、両脚部をはぎつけ、左手首を差し込み、右肘と右手首をはぎつけてあります。らほるを始め、衣部のひだや体の微妙な肉取りなどが省略されていて、極めて素朴な表現のお佛像です。お彿像の高さは、七〇.六センチメートルです。
佛師は、此の地付近の素人的佛師だと推定されます。構造や技法から推測して平安後期、十一世紀頃の作と考えられています。町田市内の木造佛としては、最古の彿像です。この地方の古代史にとって重要な佛像です。(東京都教育委員会掲示より)

野津田薬師堂の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「町田市史」